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杉﨑恒夫『食卓の音楽』

杉﨑恒夫さんの『食卓の音楽』(六花書林)を読みました。
印象に残った歌を引いていきます。

風に干しおどる背広の影みれば楽しげにして悔などはない

楕円の食卓 P57

「背広」ということは恐らく、主体は会社勤めでしょう。
休みの日でしょうか。
背広は風に乗り、影が楽しげに踊っています。

悔いのない人生を歩んでいる人はまれです。
「あの時、別の道を選んでいたら今ごろは…」と夢想してしまうことは、誰にでもあるのではないでしょうか。
主体も、時々過去を振り返っては、苦い思いをしているのだと思います。
でも、そんなことは関係なく、主体が着ていたはずの背広の影は楽しげです。

「悔などはない」と言い切ってしまうことで、主体は自分が持っている「悔」を客観視します。
そして、自分が進む道を冷静に見つめているように感じました。

仮死する冬の樹木ら どのように話しかけてもとどかぬ言葉

楕円の食卓 P71

なんてさびしい歌なのだろうと思いました。
沈黙する樹木たちに、主体は何かを必死に伝えようとしています。
「どのように話しかけても」ということは、優しく話しかけたり、怒って話しかけたりと、色々な手を尽つくしたのでしょう。
残念ながら、樹木たちに言葉は届きません。
主体の言葉は、冬の冷え切った空気に消えていきます。
「冬の」ということは、もしかしたら春になるのを待てば、樹木たちに言葉は届くのかもしれません。
でも、今届けたい言葉がきっと主体にはあるのでしょう。
諦めきれない主体の後姿が、見えるような気がしました。

わがうちに不意に傷みを喚びおこす人間不信いっぽんの針

いびつな食卓 P79

主体は、今は平和な人間関係に恵まれているのでしょう。
現状に満足している、幸せを感じている主体。
でも主体の中には消えることのない「人間不信」があります。
「わがうちに」ということは、周りではなく、自分自身の問題だと主体は感じています。
自分が「人間不信」を持っていることを、温かい周りの人たちには、恐らく悟らせないようにしているでしょう。

人間は信用するに値すると、主体はもう知っています。
きっと主体はこれからも、人と関わって生きていくでしょう。
それでも、忘れられない傷みはあるのだと、結句の「いっぽんの針」が表現しているように思いました。

噴水の伸びあがりのびあがりどうしても空にとどかぬ手のかたちする

いびつな食卓 P83

とても切実な歌だと思いました。
どうして主体には、噴水に意思があるように見えたのでしょう。
それは、主体が自身の境遇と重ね合わせて、噴水を見つめていたからではないでしょうか。
願いに向かって、懸命に手を伸ばす主体。
しかし、その願いは叶わないと主体は思っています。

空に届かない噴水に、意味はないのでしょうか。
そんなことはありませんよね。
一瞬、一瞬、異なる形をする噴水は、見る人を楽しませています。

叶わない願いに手を伸ばす主体を、きっと誰かが見ているでしょう。
主体の切実さ、誠実さ、真摯さに、胸を打たれている人がいるかもしれません。
今は孤独を感じている主体が、どんな形であれ報われる日が来ることを、信じたくなる歌だと思いました。

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