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伊丹十三がいちばん作りたかった映画

やりたいことだけを詰め込んだ映画

 初監督作『お葬式』(84年)で、一躍映画監督として脚光を集めた伊丹十三。
 それまで『北京の55日』(63年)などの海外の大作に出演する国際俳優・エッセイスト・テレビタレントとして知られてきたが、日本では80年代前半、『細雪』(83年)、『家族ゲーム』(83年)で助演男優賞を受賞するなど、俳優としての評価が高まり始めた矢先の映画監督への〈転職〉だった。

 『お葬式』の大ヒットと、各映画賞の総ナメの記憶も新しい翌1985年、監督第2作『タンポポ』(85年)を発表。そして第3作『マルサの女』(87年)で〈映画監督・伊丹十三〉の名を不動のものに。
 矢継ぎ早に特異な視点から話題作を発表し、停滞する日本映画のスター監督となったものの、映画評論家からの評価は、『マルサの女』をピークに下降線をたどり、低調が続いた。逆に興行成績はどんどん前作を上回っていくことから、どうやら伊丹は映画をヒットさせることに価値を見出したとおぼしい。
 実際、製作費全額を自費で賄う伊丹映画の製作方式は、自由な創作を保証される代わりに、ヒットしなければ次回作を作ることも危うくなることから、評価よりも興行の安定を求めたのも無理はない。晩年の『スーパーの女』(96年)、『マルタイの女』(97年)を見れば、安全パイの「女シリーズ」が連発されたところに、ヒットメーカーであり続けることに自縛されていたのではないかと思わせるふしもある。
 なお、『スーパーの女』は伊丹映画の興行記録を塗り替えるヒットとなった(配給収入15億円)が、遺作『マルタイの女』は女シリーズとしては唯一の不発(配給収入5億円)に終わっている。
 そんな伊丹が、全10本の監督作のうち、ヒットさせることを考えずに、最も自分がやりたいことだけを、存分に詰めこんで作った唯一の映画が『タンポポ』である。その理由は、『お葬式』より前にまで遡る。

『食物漫遊記』から『タンポポ』へ

 伊丹は、松田優作主演で、種村季弘原作の『食物漫遊記』の映画化を企画していた。これは単なる食のエッセイではなく、食をめぐる何とも人を食ったようなバカバカしい挿話が次々繰り出されるというもの。
 当時、伊丹から構想を明かされたプロデューサー・岡田裕が実現は難しいだろうと告げると、次に伊丹が持ってきたのが『別れの日』という脚本で、これが内容はそのままに、後に改題されたのが『お葬式』である。
 『お葬式』が大ヒットし、次回作を作ることができるようになったが、『食物漫遊記』映画化構想を諦めきれない伊丹は、食をめぐる映画を作ることを決意する。しかし、興行への不安は大きい。それを励ましたのは、「いいじゃないの。当たらなくたって。それオモシロそうじゃない。あなたの好きなようにすればいいじゃない。当たらなかったらもう一回やり直せばいいじゃない。自由につくったら」(『伊丹十三DVDコレクション』ブックレット)と背中を押した妻の宮本信子だった。

 そして、伊丹は映画化への糸口を見つける。しりとり形式で摩訶不思議なエピソードが連なるルイス・ブニュエル監督の『自由の幻想』(74年)を観たことで、この形式でなら、『食物漫遊記』のような食にまつわる映画を撮ることが可能と思いついた。
 それから数日後、テレビで『愛川欽也の探検レストラン』(テレビ朝日系)をたまたま見ていると、荻窪の寂れたラーメン店を番組の力で人気店に作り変えるというプロジェクトが放送されていた。伊丹は、これはまるで西部劇――寂れた町へやってきたガンマンが、問題を解決して去っていくようだと感じた。例えば『シェーン』(53年)がそうであるように。

 こうして、〈『シェーン』のラーメン版+『自由の幻想』の食物版〉という組み合わせによって生まれたのが『タンポポ』である。これは言い換えれば、〈娯楽映画+芸術映画〉ということにもなる。いくら妻が当たらなくても良いと言ってくれても、『食物漫遊記』を作家性の強い難解な芸術映画にするだけではヒットは見込めない。しかし、そこに〈ラーメン・ウエスタン〉形式で、大衆的なラーメンと西部劇を組み合わせてメインストーリーに置くことで、抽象的な企画が一気にエンターテインメントへ化けてしまう。
 女手ひとつで切り盛りする寂れたラーメン屋を、通りかかったトラックの運転手の山崎努が立て直し、邪魔をしてくる連中を追い払うというメインストーリー(=娯楽映画パート)を縫うように、13の食にまつわるエピソード(=芸術映画パート)がリレー形式で脇に組み込まれることで、伊丹は芸術映画と娯楽映画を両立させることに成功したのだ。

 なお、『タンポポ』の冒頭は、映画館で役所広司が食事しながらスクリーンから観客に向けて語りかけるところから始まる。前述の『食物漫遊記』映画化構想には〈映画館で松田優作が映画を見ながら食べる〉というくだりが用意されており、それを継承したことがわかる。

『タンポポ』に見る伊丹十三の本質

 当時、伊丹が目をかけていた若手映画監督の黒沢清は後に、「『タンポポ』は作家伊丹十三として自分の本質を出したという印象があり、かなり批判はされたものの、これで清々したという作品でしたね。これは誰にもわからないだろうけどそれでいいんだ、という余裕がまだあったんです」(『黒沢清の映画術』黒沢清 著/新潮社)と語り、『マルサの女』『マルサの女2』(88年)のメイキングを手がけた周防正行は、「もし『マルサの女』がヒットしなかったら、もう一度『お葬式』や『タンポポ』のような本当に自分が好きな世界——ヒットするとかしないとか関係のない——の映画をお撮りになったかもしれない」(『伊丹十三の映画』新潮社)と、2人の監督は共に、『タンポポ』を伊丹が最もやりたいことをやった映画と位置づけている。

 伊丹自身は『タンポポ』への愛着を抱きつつ、配給収入が6億円に終わったことに気を落とした。この数字自体は製作費からしても、大コケではない。公開後、伊丹は「損は全然しませんでしたけど、一桁(億単位)ですから、やっぱり面白くないですね。『マルサの女』は二桁でしたからね。」(『イメージフォーラム』1988年2月号)と不満を口にしている。
 晩年、『タンポポ』のような映画はもう撮らないのかと訊ねられた伊丹は、「あれは当たらなかったから」と答えたという。しかし、2016年、公開から30年を経て、4Kデジタルリマスターとして甦った『タンポポ』はアメリカで再上映され、その数は全米60館にまで広がり、改めて伊丹映画の中の特別な1本として再評価の声が高まっている。
 同時代の気分を敏感に反映させたマーケティング映画という見方をされることもある伊丹映画だが、“商売っ気なし”に作られた『タンポポ』は、時代の腐食を超えた魅力を今も放ち続けている。


初出『新映画をめぐる怠惰な日常』に加筆修正

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映画監督伊丹十三とは何者だったのか? 伊丹十三と伊丹映画を、13本の記事と4本のコラムをもとに再発見する特集です。

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