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noteをサボっていて悔しかったこと

どうも一発目のnoteの内容を凝縮してしまったが故に、まだまだ完全な内容でないと公開にこぎつけないnoteの下書きたちを見て、あーあ。とおもっていた。
落合陽一氏の日々短文雑記を見て、もっと肩の力を抜いてnoteってやってよかったんだわと感じてまた、ツルツルに指を走らせ始めている。

しばらくの間noteをサボっていて、悔しかったのが、「記憶より記録」のポリシーにおもいっきし違反していたことだ。

あるトピックに対して下書きを書いているとき、もちろんその内容はその瞬間自分が「心から正しい」と感じていたことを書いているわけだけれども、まだ完全な文章でないと、公開しないまま数カ月の間放置してしまう。
当然、その間も外部から新しい知識も蓄えていて、「あのときはこう感じてたけど今はこうだな」と、当時信じていたものが自分の中で崩され、アップデートされるのだけれど、当時の下書きも未だ途中で、なぜそう感じたのかを記録していない上に別の内容の物が、「上書き保存」されたような状態は、今後新たなトピックに対して考えるときに役立つであろう「プロセス」が脱落した状態で、結果の部分しか残らない。

私のポリシーの一つに「記憶より、記録。」というものがあるのは、自分の中にある1つの課題を解決したとき、その結果ではなく、そうなったプロセスを重視しているからだ。これは多くの人が当たり前に感じていることであろうが、実際に次回のために、と自身の記録を残そうとする人はあまりいないように感じる。

プロセスはどんなものにも存在し、物事を短絡的に原因→結果で示したとき、原因から結果に至る→の部分、ブラックボックス的な部分が明確になっておくことは来たる次の課題の解決に対して、参考になるに違いない。

そう考えているはずなのに、「まだまだ完全な内容でない」という職人気質を演出できるような理由付をしているだけで、単に「きれいな文章でない→周りからなにいってんのこいつと思われるのがだるい→じゃあ丁寧にゆっくり書こう→それは面倒くさい→記録をやめる」というただの怠慢であるのではないかと気づいた。
それならば別にある程度人に伝わる文章であれば、特にオチがなくてもいいのから記録するべきなのではと日々短文雑記を見て感じたわけです。落合陽一氏の記録力はすごい。

ただ、今後も自分のペースで、テキトーでいいのだと。
また、軽い気持ちでnoteを続けていこうと思う。
記録より、記録。
近況報告はこのもめむ日日雑記帳に綴って行こうと思う。

#もめむ日日雑記帳 #気ままに更新 #日記

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