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元旦の餃子のはなし。

 元旦の夜に焼き餃子を食べる――我が家が毎年広島に帰っていた頃の懐かしい記憶。

 うちは両親ともに実家が広島にあったので、年齢一桁の頃からずっと盆暮れは両方の祖父母の家に泊まった。夏は海の近くに別荘を持つ母方のほうに長く滞在し、年末年始は逆に父方のほうで年を越した。私にとってのお雑煮の味は父方の祖母が作ってくれたそれだ。

 幼い頃は島根の伯母一家も広島の叔母一家も東京の我が一家と同じく祖父母宅で年を越していた為、元旦の夕食は伯父が持ってきたサザエが一番のご馳走だった。

 しかし、私たち孫の成長に従って伯母一家が日をずらし伯母夫婦が泊まりを避けるようになると(要するに全員で泊まるには手狭になったのだ)、いつしかサザエに変わって叔母の焼き餃子がご馳走の地位に就いた。ひょっとしたら祖母の入院がきっかけだったのかもしれない。

 元旦の夕方になると、叔母夫婦が餃子のタネのたっぷり詰まった鍋といっしょにやってくる。

 ダイニングのテーブルに引いたチラシの上に餃子の皮が並べられると、ゴロゴロダラダラしていた私、妹、叔母夫婦の娘である従姉妹(彼女だけは変わらず私たちに合わせて泊まりだった)が呼ばれる。そして鍋の中のタネがなくなるまで、ひたすら餃子を包むのだ。

 包み終わった餃子は叔母がフライパンいっぱいに敷き詰めて焼き、まず「子供たち」三人に食べさせる。我が家は母の意向で水餃子しか作らないので、これが焼き餃子を思う存分食べる年に一度きりのチャンスだった。餃子の大皿は少なくとも2枚は空になった。私たちが満足するまで餃子を食べてダイニングを去ると、残りの餃子を焼いて「大人たち」の夕食となる。

懐かしい記憶

 祖母に続いて祖父が亡くなり、我が家は暮れの広島に帰らなくなった。お節の残りと私が大量に仕込んだ黒豆が今の元旦の夕食だ。

 焼き餃子のタネのレシピを叔母にちゃんと訊いておけばよかったなぁと後悔しつつも、より鮮明に思い出すのは餃子包みのほうだ。

 母が餃子の皮をチラシに並べ、叔母が菜箸でその上にタネを載せ、子供たち三人が争うように包む。そしてそれぞれの近況で会話が弾む。今思うと、ドキュメンタリーで女たちが土間に集まって共同で料理する光景が重なる。

 元旦の夜に焼き餃子が食べられない寂しさは、今になって「東京の核家族」になった寂しさなのかもしれない。

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