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絵とわたし。

「絵は、それを見る人がいて初めて生命を宿す」というパブロ・ピカソの言葉が好きだ。  

大好きな絵画たちと時代を超えてつながっているように感じることができるからだ。

この言葉を知ったのは、雑誌『National Geographic』2018年5月号のピカソの特集のページだった。

絵を見るということは一見外側に目を向けているようだけど、優れた絵を見たときは、その人自身の内側に働きかけ、思考や感情を紡ぎ出す働きをすることが、現在は科学で証明されている。ピカソはそのことに科学で証明される前から気づいていた

と書いてあった。

誰にも絵を見せたくない

私は、小さいころから絵は大好きだったけどコンプレックスがあった。
小中学校時代、自分の絵は好きだったけど、教室の中でみんなに「うまいね、かわいいね」と言われる絵とはかけ離れていた。だいたいの絵は「しぶい」と言われて、絵を見せるのがとても怖かった。  

それでも絵を学びたいと思って、高校3年生の時、大学の推薦入試で提出する絵を描くために、はじめてアトリエに通った。洗練された線を描くことを求められたデッサンの教室の講評の時、私が描いた色んな方向に散らばる線を見て「画伯みたい」と皮肉を言われたこともあった。

小学2年生の時から、生活のほとんどをバドミントンに使っていたので、アトリエに通い出して、世界は広いと思ったと同時に、負けっぱなしで何もできないことが本当に悔しかった。

アトリエには、高校1年生の頃からずっと通っている子とか、浪人生とが歴の長い子が多くて、私より後に入ってきた同年代の子はいなかった。

ある日、アトリエでよく褒められていた子が、たまたまバドミントン部で、私と試合をしたことがあると声をかけてくれた。私は当時、小学校2年生から続けていたバドミントンで、京都では同じ歳の子にはほとんど負けないくらいになっていて、インターハイにも3年連続で出場していた。インターハイに出場する前には、数えきれないほどの試合をするので、1回戦とか2回戦とかの相手は覚えていないことがある。私は声をかけてくれた子を覚えていなかった。
試合では「1点も取れなかった」と言われたけど、デッサンでは完敗だった。悔しかった。

バドミントンを続けてきたことは誇りに思っていたけど、本当に意味があったのだろうかと、初めて客観的に自分を見た瞬間だった。

色んな葛藤があったけど、諦めずに描いていたら、大学には合格した。
これは受験に持って行った絵。

「過去」「現在」「未来」という題材に決め、「未来」には画材を描いた。これから絵を描こうと思っていたからだ。

本当は私立の美大に行きたかったけど、父が難病で入退院を繰り返し、お金もなかったので、一番コストがかからずに美術を学べる教育大の美術学科を選んだ。大学に行かずに働こうかとも思ったけど、家に全くお金がなくても、色んな制度に助けられた。

もちろん教育にも興味があったから教育大を選んだのだけど、美大への憧れは今でも持っている。

大学に入って周りを見ると、美術学科の子たちはみんなものすごく絵がうまかった。そして、みんな頭もよかった。昔に感じた絵に対するコンプレックスがさらに強くなって、必修の授業以外ではほとんど絵を描かなくなった。油絵や日本画、それとデザインの授業は、ひっそりと隠れて、合評が嫌で嫌でたまらなかった。特にデザインの授業は自分のセンスの無さが全面に出るように感じて、休んだこともあった。デザイナーなんて雲の上の職業だと思っていた。

そんな時に唯一、木を彫るということにだけは没頭できて、木工の研究室に入った。木や漆の勉強はものすごく楽しかった。

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京都の老舗銘木店で木材を探したり、グループ展も何度か開いた。木の作品は、最初から触れたり使ってもらうことを第一に考えていたので、合評も誰かに見てもらうことも躊躇しなかった。


だけど絵は、先生やみんなに見せるのがどうしようもなく怖かった。  

絵をいっぱい描こうと思っていた入学前の意気込みとは真逆の大学生活で、絵を描かなくなってしまった。今、絵を描いていることを大学時代の友だちに伝えると「絵、描いてたっけ?」と言われる。

もちろん子どもたちと活動することも好きだったので、先生にもなりたいと思っていた。卒業条件でもある小中高の教員免許をとるため、小学校1年生の教室へ4週間、中学校1年生の教室へは2週間教育実習へ行った。実習はしんどかったけど楽しかったし、母校の小学校へ突撃でお願いに行って、毎週ボランティアにも行くことができるようになったり、中学校のバドミントンのコーチをやったりしていた。アルバイトも色々したけど、教育関係では小学生の頃から通っていた公文でも丸つけをしていた。

だけど、就職活動が始まった頃「今の私に何が教えられるのだろう」という疑問が浮かんできて、周りのみんなが先生になっていく中、私は一般の企業に就職した。

新卒で入社した会社は、絵やデザインとは関係ない職種だった。

フィンランドと日本の架け橋になるような会社で、好きなことが詰まった会社だったし、尊敬する社長の元で充実した日々を過ごしていた。

憧れのフィンランドには出張で2回行くことができた。文部科学大臣に会いに文部科学省へ行ったり、1,000人規模のプロジェクトリーダーも経験した。
感謝してもしきれない経験をさせてもらった。

だけど、絵とかデザインは主な仕事ではなかった。会社では社内のデザイン部署や取引先のデザイナーさんへデザインを発注する側だった。そこでデザインに対する考え方が少しずつ変わった。発注側になった事によって、私が学生の頃に考えていたデザインというものは、相手に伝えるという目的を見失っていたと気付いた。センスももちろん必要だけど、それだけじゃないことが分かった。

デザイナーさんにお願いした制作物は、時々、目的とは違うものが上がってきた。依頼の仕方も難しかったし、こうしたらもっと良くなるのではないかとか、色々工夫した。だけど、なかなか思うように修正してもらえないのが悔しかった。自分でやりたいけどIllustratorやPhotoshopはもちろん、macのマウスも使えなかった。Excelで社内報を作っていたことも良い思い出だ。大学でデザインの授業をもっと受けていればよかったと後悔した。

悔しい思いをしたから、色々あって仕事を辞めて会社を離れた時、あれほど避けていたデザインが学びたくなった。だけど、この時点で絵はまだ避け続けていた。

そんな風に過ごす中で、結婚、引越し、長男の出産を経験しながら、幸運なことに広告代理店や、印刷会社のクリエイティブ部門などで実践的にデザインに関わることができた。3ヶ月しかデザインの勉強はしていなかったけど、この頃、長年住んだ関西を離れていて、関西弁が面接で好印象だったようで、いく先々で第一希望の会社に入れた。

デザインの仕事をはじめてした時は会社で色鉛筆を使ってラフを描いたり堂々とできることが衝撃的だった。ものすごい数の色鉛筆を机の上に並べているデザイナーさんもいた。大きいカッターマットに長い定規がある机は、見るだけでワクワクする。楽しくて仕方なかった。

今までは発注するデザインについて少し深く企画すると、それはデザイナーの仕事だと言われていたので、私がそこまで考えることはナンセンスとされることが多かった。だから、就業時間外とか、お昼休みとかにデザイン案を考えていたから、会社にいる間、堂々とデザイン案について考えられる時間は夢のような時間だった。

その後、何度か引っ越す中で、芸術士という仕事にも出会った。  

芸術士は、子どもたちの無限の可能性を信じ、子どもたちの感性と創造力を最大限に引き出す手助けをします。それは、あれこれと指示することではなく、子どもたちを見守り、励まし、豊かな感性を育てていくことです。
また、芸術士の目を通して見、気付いたことを保育士、保護者、さらに社会に伝えます。子どもたちに関わる社会がこどもたち個々の個性を育み、感性豊かな子どもたちが育つ環境になっていくと考えます。芸術士は、子どもたちと社会を繋ぐ架け橋です。  

こんな目標を掲げ、1年間、週に1回保育園や幼稚園に色んな分野のアーティストが定期的に派遣され、子どもたちと活動するというもの。次男を妊娠するまでの間、約2年間続けた。

毎年発行される冊子に掲載された担当した園のページ。

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芸術士はそれなりに体力も使うし、基本的には変わりに行ってくれる人もいないので、大変だったけど、天職だと思うほど楽しかった。

長男とは絵を描いても工作してもすぐにケンカになるけど、派遣先の幼稚園では、そんな風になることは1度もなく、自信もとりもどせた。子どもたちが好きで先生になりたかったという気持ちも思い出すことができた。

そして何より、子どもたちと絵を描くことが楽しかった。ダンサーやファッションデザイン、画家など色んなジャンルの芸術士がいて、その方たちと知り合え、仕事以外で活動したりしたことも私にとって大きな財産となった。

その頃、芸術士の活動をきっかけに長年の夢だった材木屋でも働くことができた。材木屋ではワークショップや商品企画、グラフィックデザインの仕事などしていた。大好きな木に囲まれた職場に行くのが楽しみだった。

息子のために考えた寄木トラックやヘアゴム、時計のワークショップは住宅系のイベントでたくさん使ってもらった。

その他にもたくさん商品企画したり、会社案内や、チラシ、パンフレットなども担当した。

はじめての育児中で、長男の育児のことでは何度も泣いたけれど、仕事は楽しかった。  毎日バタバタだったけど、やりたかったことがどんどん実現していった。

しかし、そんな日々は長く続かず少しずつ状況が変わっていく。当時3歳の長男がかなりのイヤイヤ期で手こずっていた上に、次男がお腹にいて切迫流産で入院一歩手前の絶対安静という状況になってしまった。大好きな仕事にも行けなくなって、毎日泣いていた。仕事を全力でやることが息抜きだったので、生活のバランスが崩れてしまった。

そんな時に、なぜか絵を描きたくなった。
自分のデザインしている制作物の中で、イラストを使いたいけど、求めているイラストがなかったのがきっかけだ。

それでもなかなか描くというところまでには至らなかったけど、絶対安静が少しずつ解かれて行って、当時材木屋にたまたま現れた大先輩のイラストレーターさんに相談すると「気負わずにまずは描いてみたらいい、あなたならできる!」と背中を押してもらって、描く事にした。

その時は香川に住んでいたので、昼休みにうどんを食べながら、気軽に描くための方法も教えてくれた。

後にそのアドバイスをまとめたこの投稿は、今までのInstagramの投稿の中で一番反響があった。

こうして、10年以上描いてなかったけど、意外とあっさり描き始めることができた。

最初に描いたときは、あまりの描けなさぶりに絶望した。

子どもが起きているうちには描けないし、この頃には昼間は仕事に復帰していたので、みんなが寝静まった真夜中に毎日絵を描いていた。なかなか思うようには書けなかったけれど、描くとなぜか気持ちがとても落ち着いて、心のよりどころになっていった。描き始めたのは次男の妊娠7ヶ月くらいの時。

先輩イラストレーターのアドバイスにより、描いたらすぐ、敬遠していたInstagramに投稿した。

誰かに絵を見せるという事に抵抗があったので、知り合いには誰にも知られないように新しいアドレスを作って登録し、家族はもちろん、友達にも内緒でこっそり投稿していた。すると、思いがけず全く知らない方たちから反応をもらえた。もう一つの居場所ができたようで嬉しかった。

絵を描いていくと、なぜかパンの絵が多くなっていった。その頃は、パンを食べるのはあまりにも日常的すぎて、自分がパン好きだなんて自覚はなかった。だけど、毎日食べていたようで、その食べていたパンのカタチを絵に残すのが楽しかった。制作物の素材として描きたいと思っていた本来の目的とは少しずれて、いつの間にかパンの絵ばかり描くようになった。

後に、昔からの友だちに話をすると、まだパン好きなようで安心したと言われたので、自覚してなかっただけで、パンはずっと好きだったみたい。(この辺りの話は描くと長くなるので、「パンとわたし。」にまとめています)

描き始めて1ヶ月もたたないうちに、フランス料理のレストランを経営されている方から「パンマルシェ」の絵を描いて欲しいとDMをいただいた。これが最初の仕事だったのかもしれない。かもしれないというのは、仕事と認識していなくて、料金を聞かれた時に、物々交換にしませんかと提案したからだ。

そんな風に依頼が増えていって、物々交換の方が大変になってきたので、料金をいただく事に自然となっていったけれど...。

それから、イラストの仕事はSNSからの定期的に入ってくる依頼を細々と続けているので、ポートフォリオやメニューも作った事なくて、営業もしたことがない。

今までのイラスト関連の仕事をいくつか振り返る。

パン関連のショップカード。

フォロワーさんからのリクエストではじめて作ったカレンダー。

2回目に作ったカレンダー(2020)

パングッズ。

北海道のパン屋さんとのコラボトートバッグ 。

大好きなフィンランドのパン屋さんが来る時には、フォロワーのみんなに知ってもらいたくて、こんなポスターも作った。

学生時代、本に囲まれたいという理由で本屋さんでアルバイトをしたこともあるくらい本が好きなので、文庫本の挿絵のお話もいただいた時は感無量だった。

パンのお話で、1・2巻と継続で担当させてもらっていて、今後もお話が続く限り、声をかけてくれるとのこと。

仕事になったのは涙が出るほど嬉しかった。
自分の絵を必要としてくれる方がいるとしれたから。

最初の目的だった、自分のデザインしている制作物の中でイラストを使いたいということが、想像もしていなかったカタチで実現している。
デザインありきでなくて、イラストから仕事がくるようになった。

もちろん、絵そのものに価値を見出してくれる方もいて、それもものすごく嬉しいし、自信をもらっている。銀座でのはじめてのグループ展でも絵が売れた時は涙が出るほど嬉しかった。

今でもグラフィックデザインの仕事をしているので、絵は描いて終わりでなくて、素材として使いたくなる。

最近では、今までほとんど言われたことのなかった、上手いね、かわいいねと言われることも増えた。昔の私が聞いても信じないと思う。

絵をみて、「パン屋さんに行きたくなりました」とか「食べたくなりました」とか「パンが好きだった亡き母を思い出しました」とか見てくれる人それぞれの感情が動いたり、行動のきっかけとなるのも嬉しい。私のパンが大好きな気持ちが、絵から伝わったということだから。

昨年の夏には自分用に作っていたパンの壁紙を公式LINEで配信し始めて、想像もしなかったけど、今は2000人を超えるお友だちができた。

公式LINEでは、週に1度デジタルで直接絵をお届けしている。パンが好きな方や、私を応援してくれてる方など、毎週本当にたくさん感想をいただけて、力をもらっている。

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1つのパンの絵から「幼いころに祖母と通ったパン屋さんを思い出して、連絡をとりました。」という感想も嬉しかった。海外の方で、「日本のパンを見て日本を思い出してほっとしています」という声ももらったことがある。こんな風に、誰か1人でもいいから感情が動くような、そんな絵を描きたいと思うようになった。

見てくれた方の心に届いて、ほっとしたり少しでも力になれたら嬉しい。

絵を描くこと自体は自分のためだ。描いていると気持ちが落ち着くし、何より楽しくて夢中になれる。

LINEでの配信をするまでは、何かのために絵を描くということに、違和感があった。だけど、たくさん感想をもらうことによって、ピカソの「絵は、それを見る人がいて初めて生命を宿す」という言葉を私なりに体感できた。

先が見えず不安な今、私のパンの絵を見てちょっと頬が緩んだり、肩の力が抜けたり、楽しい気持ちになったり、切なくなったり、懐かしくなったりと、少しでも感情が動いたり、行動をするきっかけになることを想像して、これからも発信し続けたい。  

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パンとタルトの公式LINE https://lin.ee/fjML1Yj

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