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【ももばちのヤミコラム】ワクワクギラギラの自分と、何もできずにうずくまる自分。同時に存在する両極端の自分の話

最近(...と言っても私にはよくある話だが)、

仲間と一緒にやれそうなこと、自分という人間の可能性に挑戦してみたいこと、
やりたいことがたくさん見えてきて、ワクワクから生まれるあたたかい芽吹きのエネルギーを感じている自分と、

それとは反対に、何もする気になれない、1人になると心も身体も重苦しくなって、ひたすら布団にうずくまるだけの自分が、

同時に私の中に存在している。

オンラインでもリアルでも、人と話す時には前者のモード全開で、エネルギーに満ち溢れた気持ちになる。

それなのに、自宅に帰り、1人になった途端に、すべてのエネルギーがどこかへ消えてしまったかのように、どっと身体と心が鉛のように重くなる。
何かをしようとすると、息が詰まって苦しくなる。

やりたいこと、たくさんあるのに、
進みたいのに、進めない。

人前で出てくる私は、ひたすらエネルギーに満ち溢れているから、
「元気そうだね」
って言われることもしばしば。

たしかにその時その瞬間は元気なわけだから、あながち間違っているわけではないのだけれど、

あぁ、もう1人の私を分かってもらえてないな...。というか、もう1人の自分を見せれてないってことだな...。

そんなことを思う日々が続いているので、こんなブログを書いています。

基本的に波の激しい人間なので、同時じゃなくても、まわりから見えている光の側面と、まわりからは見えづらい闇の側面と共に生きてきて、
どうしたってまわりからは光の当たっているところだけで、「行動力すごいね」とか「すごいことやってるね」とか言っていただくことが多いわけで、それはもちろんありがたいことではあるのだけれど、
どこかでやっぱり、「それは私のごく一部分にすぎないんだよ...」と、私のヤミが囁くのです。

程度の差はあれ、誰しもきっと持っているであろう、光の当たらない部分。

私が人のヤミの話を聴きたいと願うのは、私自身が本当は自分のヤミを聴いてほしいと願っているからなのかもしれない。

だからせめて、私と同じく、光の当たらないヤミの話を聴いてほしいと願う人の話を聴くことで、自分自身の存在意義を見出しているのかもしれない。
(もちろん、人のヤミの話を聴く理由はそれだけではない。)

ダラダラと何を言いたいのかも分からずに書き始めたこの文章を読んでくれたあなたに、感謝とともに、2つ、伝えたいことがあります。

まずは、あなたのまわりに、いつも明るい人、エネルギーに満ちているように見える人がいたら、
ちょっとだけ、想像してみてほしいのです。

もしかしたら明るくエネルギーに溢れて見えるその内側に、光が当たっていない、違う姿があるのかもしれないと。

光が当たっている姿しか見せれない不器用さと共に生きているかもしれないこと。

意識的に何かしなくても、ちょっと想像してみるだけで、その人への接し方が自然と変わり、
もしかしたら、それがその人にとっての救いになるかもしれないと。

そしてもう1つ、あなた自身の中に、光が当たっていない自分がいないか、ちょっと胸に手を当てて感じてみてほしいのです。

いつもまわりには見せていない、でも、本当は見つけてほしいと小さな声を上げている自分はいませんか?

そんな自分がいるかもしれないと思ったら、思いきって、まわりの信頼できる人に、「実は私、まわりには見せてないけどこんな自分がいてね...」と、打ち明けてみてほしいのです。
そんな話できる人いないよって方は、私でよければ喜んでお話聴かせていただきます。
お気軽にご連絡くださいね。

光の当たっている自分だけが自分じゃないから。
光の当たらない、まわりが知らない自分も、隠さなくていい。

(もちろん、光が当たってなくても、それを誰かに見せたいと思わないものもあると思います。それはそれで、自分の中で大切にぎゅっと抱きしめてあげてほしいなと。)

私自身、偉そうなこと、ほんとは言えないくらい現在進行形で葛藤していることだけれど、
だからこそ、共鳴し合える人がいるかもしれないと、言葉を紡いでみました。

矛盾するどんな自分も、全部自分だから、
どんな自分も大切に、
できれば誰かと分かちあって生きていきたい。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

あなたの心の中に、小さな愛が生まれることを願って。


ももばち

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