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『孤島のキルケ』(12)

 口づけの先をせがむきるけえを制してくれた事で、とむへの借りがさらに増えた。
 細い窓から朝日が差し込む頃には、とむは大きな伸びをして私の腹にのしかかった。
「起きろよ。腹減った」
 オオヤマネコだと言うのに、昼行性ちゅうこうせいだか夜行性だか判然としない。
 四六時中寝ているのか起きているのか分からないが、寝ているように見えて水神の話を聞いていたようだから、はた目からは判断できないだけなのだろう。
「起きてる」
 私は緩慢かんまんに起き上がり、身じたくを整えた。

 リンゴ酒の香りのする口づけをした後だけに、きるけえと顔を合わせるのが気まずくはある。
 だが館の客人である以上、こっそりと館を抜け出すのもぶしつけだ。
 私は大きく息を吸ってふらんそわに教わった通り目を上下に回し、水筒の水を飲んだ。
「ひでえ面だなオイ」
 毛むくじゃらの顔を歪めて笑うとむに言われる筋合いはない。
 私は憮然ぶぜんとしながら、きるけえの衣服の色を予測して伝えた。

「昼飯の具は」
「きるけえの故郷の軽食」
「大穴狙いかよ、当たっても一シリングにもなりゃしねえ」
「しりんぐとは、とむの故郷の金の単位か」
「ああ、安酒を引っかけるにちょうどいい金額だな」
 とむは、じんとにっくが飲みてえなと言いながら部屋を出て行った。

「あんたの予想が当たってやがる。やっぱり坊さんのチップはすげえや」
 とむが大広間に入るなり、低い声を出した。
 晴れ渡った天草あまくさの海のような水色の上下を着たきるけえは、食堂の大きな窓の前で横たわるふらんそわの毛並みを梳いている所だった。
 開け放たれた窓から朝特有の清々しい空気が入っていた。
 ふらんそわの黄金色の毛並みが朝日に照らされて、部屋中に金色の粒子のように反射していた。
 私はこの完全なる調和に満たされた空間を汚すのが忍びなく、そっと音を立てぬように館を後にした。

「人と人としては互いを愛で満たせなかったのに、人と獣になってから互いを愛する事になるとはな」
 庭から二人の姿を見つつ、私は天草あまくさのせみなりよで見た南蛮画なんばんがに思いを馳せた。
 陽だまりの中できるけえに身を預けて目を閉じているふらんそわと、静謐せいひつな表情でその黄金色の毛並みをくきるけえの姿は、あの南蛮画そのものであった。

「あれと同じ構図の絵をな、せみなりよで見たことがある」
「セミナリヨ?」
 とむはがっしりとした四肢の歩みを止めて、私を見上げた。
「今ではすっかり御法度ごはっとになってしまったが、私がまだ父の見習いをしていた時分にせみなりよが天草あまくさにあったのだ。そこには幼子を膝に抱く聖母様の絵が掛かっていた。宣教師の話は全く理解出来なかったが、あの絵は良く覚えている」

 人の姿をしたとむとも少し違う姿形の宣教師達の説法は、私の心を動かさなかった。
 それでもなお、幼子を膝に抱く聖母の絵は、信仰の差を超えた尊き存在の象徴だと年若き私は深い感銘を受けたものだった。
 よもやその南蛮画を見たのと同じ感銘を、きるけえの姿から受けることになるとは――。
 私は再び深く心を揺さぶられていた。

「そりゃ俺とふらんそわの神様の一人子と聖母様の絵だ。ニヘイさんの所ではせみなりよと呼ばれているのか」
「信者の事をきりしたんと呼び、その学校をせみなりよと呼んでいたのだ。天草あまくさの他にも伏見や有馬にもせみなりよはあったのだが、父は交易のために天草に行っていた」
「今じゃ御法度ごはっとになっているって事は、キリシタンはニヘイさんの住む土地から居なくなっちまったって事か」
 私は黙って頷いた。
 霧のように消えたわけではない。意思を持って抹消されたのだ。
 きりしたんだけではない。
 伊勢長島いせながしま一向一揆衆いっこういっきしゅう比叡山ひえいざんの僧兵も消されたのだ。

 あの絵のように、陽だまりに包まれるふらんそわときるけえのように、穏やかに満ち足りて暮らしたいと祈りを抱いて人は生きる。
 そのつつましい祈りを捧げる人々が集合体として束ねられ、破壊と絶望の呼び水となる。
 伊勢長島いせながしま比叡山ひえいざん。そして遠からず天草も同じ道をたどるであろう――。

 都の貴族の館や大寺院に出入りしていた私は、きりしたんが御法度ごはっとになるに至った事情を断片的ながらに聞いていた。
 その真偽はともかく、土佐から入ったと言う一報は、宣教師の活動を不快に思っていた一派にとって絶好の機会となるだろうとは思ったものだった。
 同時に例え土佐からの報告内容が事実だとしても、あの絵の本質は何ら揺らがないと今でも確信している。
 あれは愛そのものだ。
 きるけえは最初から愛と共にある。愛はきるけえの中にある。
 それを、呪いによって忘れているだけなのだ。

「ここから脱出して、もしニヘイさんが元の世界に戻れなかったとしてもよ」
「縁起でもないことを言うなよ」
 不服そうな私に構わず、とむは続けた。
「ニヘイさんが見た絵を、嫁さん子供に仲間皆でワインやエール片手に見物できるような世界にたどり着いてくれや」
「ぐろっぐやじんではなく」
 とむが飲んでいたと言う酒の名を挙げると、とむはふわっと吐き捨てるように大きなあくびを一つした。
「ありゃ貧乏人用の安酒だ。俺だって出来ることなら、お偉いさんみたいにワインやエールが飲みたかったさ」
 酒に弱い私はそんな物なのかと思いつつ、松林の先に見える海岸線に目を向けた。

「さて、今日は潜水艦に案内するぜ。ニヘイさんが見たことのない船なのは分かっているが、同期さえ出来れば思った通りに動くからかえって気楽なもんさ」
「その同期が問題なんじゃないか」
「そのためにチタン製のチップを全身に入れたんだろ。安心しろっての」
 土を思い切りよく一蹴りすると、トムは松林を全速力で駆け去った。
「全身?頭だけじゃなく?」
 私は自分がどのように改造されたのかを良く分かっていない事に、改めてぞっとした。

二瓶にへい様」
 到底オオヤマネコの全速力に叶うはずもなく、とむの足跡を頼りにぽつぽつと松林を歩く私の背後から声が聞こえてきた。
「朝食をキルケ様から預かってまいりました」
 ふらんそわは少しばかり息が切れているようだ。
「邪魔しちゃ悪いと思って、挨拶あいさつもせずに出て来たのだが」
 邪魔しちゃ悪い、に強勢を置いて見たがふらんそわには私が含んだ暗喩あんゆは届かないようだった。

「キルケ様が二瓶にへい様の機嫌を損ねてしまったかもしれないとお嘆きで」
「あなたがそばにいるのだから良いではないか」
 言ってからしまったと思った。
 これではまるで、すねて嫉妬する子供のような言い草だ。
「私は獣になり果てましたから、もはや両の腕でキルケ様を抱きしめる事も叶わぬのです」
「抱きしめたいのか」
「あの悲しげな顔が少しでも安らぎに満たされるのならば、私はいくらでもこの体を差し出すつもりでした。しかし私の体は、もはやその用には耐えぬのです」

 ふらんそわの首に巻かれた風呂敷包みを解くと、経木きょうぎの香りが鼻腔びこうをくすぐった。
「昼食は別にお持ち致します。本日は造船所に向かわれるご予定ですね」
「私にも良く分からないが、恐らくはそうではないかと思う」
「かしこまりました。ではまた」
 ふらんそわは一目散に館を目指して走っていった。

 大きな鉄の扉で覆われた岩陰いわかげ近くで、とむの足あとが消えていた。
『俺の居場所に来てみろよ』
 脳内にとむの声が響くので、私はとむが好みそうな場所を探った。
 潮だまりを伝って海岸へと降りるが、とむの足あとも抜け毛も見当たらない。
『目を閉じて、目玉を上に動かして』
 海豚いるかの顔をした男の声がした。

 とむに笑われたみっともない顔になるのを承知の上で、目を閉じて目玉を上に動かす。
『外を見るでない、中のみを見られよ』
 胎息たいそくに近いほどかすかな息遣いを繰り返しながら、私はとむの気配を探った。
「分かった!」
 私は子供のように、海岸の岩場からかすかに見える奥まった洞窟どうくつへと一目散に走りだした。

「やれば出来るじゃねえか」
 引き潮の洞窟どうくつの中で、とむの目がぎらりと光った。
「そりゃちっぷなどと言う意味の分からぬものを体に入れられて、何の変わりもなけりゃ詐欺さぎだろうさ。なあとむ、あの後ふらんそわが朝飯を持ってきたぞ。食うか」
「外で食おうぜ」
 とむはのそりと起き上がると、日差しの降り注ぐ海岸線へとその身を現した。

「ここで良いか」
 私は潮で削られた平らな岩に腰を掛けた。
「俺の分も持ってきてら」
 昆布と貝しぐれの握り飯の他に、もう一つの経木の中に細かくほぐした魚が一杯に入っていた。
「飯の白い所もくれよ」
 昆布握りの白米部分をもいで、ほぐした魚が満載まんさい経木きょうぎの上に置くと、とむは旨そうにがっつき始めた。
「水」
 最小限の一言に応じて空いた経木を水受けにして差し出すと、とむは飯と水を交互に行き来した。

 腹が一杯になったのか、とむは満足しきった表情でごろりと横になった。
「行かなくていいのか」
「あんた一人で行ってろよ。俺はこれから日光浴だ。フランソワが昼飯を持ってくるだろうしな」
 それだけ言うと狸寝入り(猫のくせに!)を決め込んだので、私は一人洞窟の奥に入ることにした。

「どうぞ」
 洞窟の奥に鎮座する黒光りするそれは、私が地下室で見た時より一回り大きく感じられた。
「ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦の初号機です。改良を重ねまして、先日お見せしたものより航続距離こうぞくきょりが飛躍的に伸びております。操作性も高まっておりますので、直ぐに試乗訓練しじょうくんれんも出来ますでしょう」
 『初号機』があるなら『二号機』以降もあるのかと、私は少し引っ掛かりを覚えた。
 だが彼の説明は聞けば聞くほど意味が分からなくなることを思い出した私は、疑問を口に出さずに置いた。

 海豚いるかの顔をした男は、私に棺桶かんおけふたのような出入口を開けるように言った。
「どうやって」
「開くと思えば開きます」
 果たして、頑丈そうな出入り口は音もなくするりと開いた。
 私は勧められるままに狭い階段を下りた。
「出入口を閉めましょう」
 閉めようと思ったら閉まった。
「明かりを増やしましょう」
 同じ要領で明かりを増やすと思ったが、上手く明るくならない。
「あなたが思う明るさを思い描いてください」
 首をひねりながらもとむが浴びているであろう日光を思うと、暖かな光が船室全体を包んだ。

「一事が万事こんな調子なのか」
 私は辟易へきえきして思わず尋ねた。
「便利でしょう」
 いやいや、どこが便利なのだ。
 一つ一つの行為を頭の中で思い描かなければならない上に、本当は開けてはならない時に、不意に出入口を開ける姿を思い描いてしまったらどうなるのだ。
 うんざりしながら私は海豚いるかの顔をした男を見た。

「航行に支障を来す指示が操舵者から出た場合には、自動運転プログラムが優先されますのでご安心を」
 どうにもご安心など出来そうにもないのだが、いちいち突っかかる時間もない。
「それ故チップの力のみに頼る事なく訓練が必要になるのです。的確な想念のみを明確に思い浮かべ、それ以外の雑念を一切捨て去る訓練が」
 その訓練が幽鬼ゆうきのように歩き続ける事だったのか。
「あれは初歩の初歩に過ぎません」
 脳味噌のうみそが溶けだしたような昼下がりの数時間を思い出し、私は思わずうへえと気の抜けたため息を漏らした。

 幽鬼のように歩き、セミの抜け殻の如く立ち尽くす訓練だけでもうんざりだ。
 それなのに、海豚いるかの顔をした男は、更に私をげんなりさせる事を言い始めた。
「欲を言いますれば絶食して頂きたい所ではありますが」
 絶食などとんでもない。
 あんたのようにに空気中の水分やらで生きる方がどうかしているのだ――。
 私の心の中での反駁はんばくは、即座に海豚いるかの顔をした男に伝わった。

「絶食すればしたで、キルケの機嫌を損ねてしまいますからな。あれには母のような気性もあるがゆえ、世話を焼かせてやるだけでも、少しは恋情餓鬼れんじょうがきの苦しみを取り去る助けにはなるのです」
 海豚いるかの顔をした男は、つるんとした頬を撫でながら言った。
「確かに世話焼きな性質だなとは思ったが。世話をされるのは行きがかり上避けられぬのは分かっているが、出された食事に媚薬びやくや毒を入れてはおらぬだろうか」
「毒はさておき、媚薬は間違いなく入れられていますな。媚薬だけでなくまじないの類も。二瓶ニヘイ様の髪の毛も下の毛も、当然まじないには使われていますでしょう」
 何となく分かっていた事ではあったが、改めて指摘されると身の毛のよだつ思いであった。

「昨日もカメムシの煎ったような匂いのする粉とマムシ酒を合わせたものを、私のとろろ汁に入れようとした」
「ああ、それはただの強壮剤です。操心目的ではありませんからご安心を」
 それでなくとも、私は獣になるかならないかの戦いを繰り広げているのだ。
 強壮剤など飲まされたら、安心どころの騒ぎではない。
 海豚いるかの顔をした男は浮世離れしているのか、私のような凡夫ぼんぷの苦悩に共感が薄いようだった。

「私がきるけえの誘いをすり抜けるのを、精が弱いからだとでも思っているのだろうか」
「そうかもしれません。二瓶にへい様は過去の男達よりも、キルケの誘いに対して淡泊に振舞っておられる」
 キルケの誘いに応じれば獣になると聞かされて育ち、伝承通り島には獣と獣面人身の男しかいない。
 そんな光景を見れば、誰でも全力でキルケの誘いから逃れようとするのでは――。
 私は意外に思った。

「人は誘惑に弱い生き物です。いざ実際に妖女キルケに誘われれば、後先も無くその体を貪るのが男のさがでしょう。特に血気盛んな若者には抗いがたい誘惑です。若者だけではありません。女にすっかり縁遠くなったおきなも、これが最後と勇んであの体にセミのようにしがみつく」
「ではきるけえは見た目や年齢に関係無く、本当にどんな男相手にもがれてしまうのか」
「誠にいたわしい事ではありますが、先の短いおきなにとってはキルケは天女のようなものでありましょう」
 海豚いるかの顔をした男は静かにうなずいた。
 その言葉に、疑問がわいた。

「ぶしつけな事を伺うが、あなたのように獣面人身になれば肉欲を失うのだろうか」
「拙僧は人間であった時分から、肉欲を離れる事が出来た身ですから」
 空気から栄養を取り肉欲を必要としない存在は、もはや人間と呼んで良いやら分らぬ。
 海豚いるかの顔をした男は、通常の獣面人身存在の参考にはなりそうもなかった。

「さて、的確な想念のみを明確に思い浮かべられるようにして参りましょう。チップが入っているのですから、すぐに念動力回路ねんどうりきかいろを使いこなせるようになりましょう」
 言うや、海豚いるかの顔をした男は逆立ちになったまま腕を組んで船室に浮かんだ。
二瓶ニヘイ様はこの立位から始めましょう」
 きんと側頭部に熱が伝わると、私は浄瑠璃じょうるり人形のように操られた。

 私は船室の端でくすのきの大木にしがみつくセミのように膝をゆるく曲げたまま、身じろぎもせず息を潜めた。
 まるでこれではきるけえの裸体にしがみつく翁のようだとぼんやりと思ったら、きるけえに飲み込まれた部分に血液が集中していくのを感じた。

 妖女きるけえの誘惑に耐えながら人として暮らしているこの島での日々は、元の世界での生活の何日分にあたるのだろう。
 私も食欲と肉欲を必要としない存在になったらどうしようかと思うと身震いが走る。
 きるけえの背中を抱くように前方に投げ出した腕が自重じじゅうに震えても、緩く曲げられた膝の関節がきしみ始めても、操られた私の体は意に反して同じ姿勢を取り続けた。
 いつしか出口を求めて悲鳴を上げていた私の下腹部も、呼吸と同じく静まり返っていった。
 逆立ちしたまま空に浮かぶ海豚いるかの顔をした男と、虚空こくうを抱く私は、ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機に密閉されていた。

法主ほっす様、二瓶にへい様の昼食をお持ちいたしました』
 脳内にかすみがかかったようにふらんそわの声が響いてくると同時に、私を操る目に見えない糸が切れた。
 私は自らの重みで床にくずおれた。
「体幹が弱すぎますな。悪いことは言わぬ。鍛えなされ」
 あきれたように一言告げると、海豚いるかの顔をした男は船室を出て階段を上った。
二瓶にへい様、扉を開けられませ」
 扉を開けると念じると、音もなく扉が開いた。
 ああ、面倒だ――。
 これなら手で操舵した方がずっと楽だろうと改めてげんなりとしながら、私はハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機を下船した。

 


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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