日本人は自分たちの見た目が嫌いか 1#

主語の大きいタイトルをみると自分のことを言われているみたいで、喧嘩を売られている気持ちになりますね。すみません。今回は、日本人の女の子に焦点をあてて考えていきたいと思います。

よくSNSとかで、「女の子が理想とする女の子」と「男の子が理想とする女の子」の違いがあるあるとして話題にのぼるのを見かけます。大抵の場合、

→「男の子が理想とする女子」は、(こちらは個人的な観測の範囲ですが)
"清楚系"か"お色気系"の二大派閥、まれに美人系

→「女の子が理想とする(なりたい)女子」は女性のファッション誌に載っているようなモデルさんたち。つまり、細くて、白い。足が長い。目が大きい。

ちなみにそれらファッション誌のモデルさんの(モンゴロイド以外との)ハーフ、クウォーター率は(リアルな日本の現実社会と比べて)異常に高く、ハーフ顔メイク、外国人風ヘアカラーがもてはやされていることから
日本人の女の子は多かれ少なかれ白人、外国人コンプレックスをもっているということがあばかれているのではないか、と感じます。

例えば:ファッション雑誌Themのメッセージがかなり人種差別的で、なおかつ日本人の潜在意識をよく言葉に表しています。以下抜粋でみていきます(リンクより全文どうぞ)。

ファッション雑誌を自負する『Them magazine』では、基本的に外国人モデルを起用します。
アメリカ人もいれば、ヨーロッパや南米もいます。ただ、どこの国のモデルかは重要ではありません。逆に、何人かわからないほうが想像が膨らむので良い場合もあります。ターバンを巻いたインド人や、切れ長の目を持つ日本人や韓国人では、想像が限定してしまいます。

??? ここまでではよくわからないので、続きをみてみましょう。

では、日本人のモデルは絶対使わないのか? というとそうではありません。使うこともあります。韓国や中国のモデルを使うこともあります。それは、意外性を狙ったときです。また、日本やアジアを使う明確な意味があるときです。小誌では、南国のロケ地で花柄のプリントの服を撮影したときに、日本人のモデルを使いました。いかにも褐色のモデルではなく、日本人の肌や髪が、南国の汗をより表現できると考えたからです。

ツッコミたいところがたくさん出てきました

・日、中、韓のモデルを起用するときは「意外性を狙ったとき」or「アジアを使う明確な意味があるとき」
→こういった姿勢がステレオタイプを助長するのではないでしょうか...

・いかにも褐色のモデルではなく、日本人の肌や髪が、南国の汗をより表現できる
→日本人が南国に適応してないから現地の人に比べて汗っかきだから、を言い訳にしたいのはわかったけど、「いかにも褐色」という日本語の使い方が個人的に気に食わない。「いかにも白い」「いかにも黄色い」モデル、って言い回しとか、普段使いますか?

「TEENAGERSONLY」という特集の際は、十代の日本人女性モデルだけでファッション撮影をしました。十代の日本人男性はもちろん、外国人男性モデルよりも、より十代を強調できると狙ったからです。

・十代の日本人男性はもちろん、外国人男性モデルよりも、(十代の日本人女性モデル)がより十代を強調できる
→昨今のいわゆるJK至上主義と根本的には同じことではないでしょうか。外国人より日本人の方がそして男子より女子の方が、見た目が幼かったり、未熟なイメージを想起させたり。「権力」「成熟」とかっていう概念からもっとも遠く、若さが最上の価値という考え方に迎合するのが10代女子ですからね。 続き

ただ、日本の雑誌だから。読者が日本人だから。といった理由で使うことはありません。
要は読者が、モデルの写った写真を観て、どれだけ「かっこいい!」と思ってくれるか、です。そのためには、誰もがよく目にするシーンやありふれたシーンでは、ダメなのです。

その論理は理解できます。 続き

イマジネーションを喚起する際には、「リアリティ」は不要です。「憧れ」が必要なのです。
商店街を歩いている学生さんをモデルにすれば、リアリティはあり、親近感がわき、自分にもこの服なら似合うかな、と思う読者がいるかもしれません。しかし、何度も言いますが、それはファッション雑誌の使命ではありません。
外国人の彫りが深く、スタイルの良い外国人モデルのように、なれるわけがありません。それでも日本人読者は彼らに憧れ、少しでもあんな風になれればいいな、と願います。そこからイマジネーションが始まるのです。

はい、最初の「想像が膨らむ」うんぬんの話に戻ってきました。

・「外国人の彫りが深く、スタイルの良い外国人モデルのように、なれるわけがありません。それでも日本人読者は彼らに憧れ、少しでもあんな風になれればいいな、と願います」
→彫りが深く、手足が長いスタイルを良しとし、それと対照的な日本人の容姿を相対的に否定する。この価値観が、今までどれだけ多くの人を苦しめ、傷つけ、潜在的に人種主義(人種差別)的な意識を植え付けてきたか。それを強化していく方向に、イマジネーションを限定する必要はないと思います。

たしかに商店街の大学生をとっつかまえてスナップ写真を撮るばかりでは、味気ないかもしれない。けれども、カッコイイ!と憧れを抱かせることに、人種や性別の間に横たわる差異、劣等意識を利用しないでほしい。そのステレオタイプを打破するためにクリエィティブがあるんでしょっ!とつい発破をかけたくなります。

ここまで見てきて、イマジネーションを喚起するために〈目が切れ長でなかったり〉〈ターバンを巻いていない〉欧米人がスタンダードに起用されていることがわかりました。ここで疑問が生まれるのですが、同じ論理でいくと逆に

欧米人向けのファッション雑誌はイマジネーションを喚起するために誰を起用しているか? 日本人やインド人?

なわけないですよね。欧米のファッション誌は、
昔は人種ヒエラルキーのトップに立っていたアングロサクソン系のモデルを多く登用していたところを、
現在は、黒人→アジア人→、と起用モデルをリアルの多様な人種の比率に近づけています。また誌面にドラァグクイーンを登場させたり、生物学的な性別にとらわれない形でもイマジネーションを膨らませています。「リアリティは不要」と言い切っている日本のファッション誌とは正反対ですね。

ここまで見てきてわかるように、たとえば女性の見た目に関して

白人女性が「ありのまま自分らしく」いるのは自然 で、

日本人が「ありのまま自分らしく」、は不自然 だとされる場面が、日常の至るところで見受けられます。

身近なところで例えると、前者は
・普段すっぴんも化粧もどちらも可
・若い人もおばさんと呼ばれる人もヨガウェア、膝上スパッツ着用のまま犬の散歩をする(様子がごく自然な光景)
それに対して後者は
・化粧は社会におけるマナー
・ヨガウェア・タンクトップ・スパッツを履いて、肌の露出が多いまま出歩く人をあまり見かけないし、実際その格好をすると人目を引いてしまう
といった具合です。

理屈をこねるよりも、こういったシーンを具体的に想像してみて、その瞬間に自分自身がどう感じているか、観察してもらったほうが話がはやいかもしれません。今まで述べてきたような価値観が潜在意識に刷り込まれている私は、日本人の50代女性がタンクトップとスパッツで街中を歩いていたら、それを目撃した瞬間に周囲から浮いているような、違和感を直感的に感じてしまうことが想像できます。(実際、自分がまわりの人の容姿に対して違和感、抵抗感を感じることは日常で幾度となくあるので、そんな体験に遭遇するたびに、自分が知らないうちに持っている差別意識の構造に意識的に気づいて、省みようとあがいています。その中の一つの例です。)

ただし、一歩海外に出てみると、その抑圧構造から解放されて、"違和感"は感じなくなります。なぜなら、周りの誰もが容姿のそのような点を気にしていないからです。たとえば欧米に限らず、シンガポールでは、その女性がなに人だろうと、キャミソールを着てすっぴんで出歩いていても、誰もジロジロみてきたり、周りから浮いたりしません。誰も気にしていないからです。「シンガポールはブスが多い」という通説がありますが、この状況を日本のドメスティックな価値観で言い換えれば、そういうことになります。

もちろん、これらの行動様式の違いは、文化的背景や文脈の違いから成り立っていることも多いです。ですが、その根底にあるのは、
そして、私自身が日本で暮らす中で、すれ違った人たちに対して一瞬でも「見たくない」「うっ」っと感じてしまったり、違和感を覚えてしまうのは、
やはり(日本人としての)自分の見た目が嫌いだ ということになるんだと思います。

今、(日本人としての) と書きましたが、厳密に言うと日本人に限らず、(自分と同じような) "モンゴロイド的な特徴"、"東アジアンな特徴"をもった見た目が嫌い、ということになります。一応断りますが、国籍やnationの話ではないです。

多くの人たちが「ハーフ」という日本語から想起するイメージは、肌の色は様々でも、だいたいお目目がパッチリして目鼻立ちがはっきりした人物像だと思いますし、「ハーフ」というワードを厳密に定義されず、カジュアルに使われるときは、今書いたような人たちを指していることが多いです。
去年秋のハーフ限定の企画広告をみてください。(けっこうひどい)


ハーフ

【参加ハッシュタグは#媚びない女スタイル】
応募条件
■ハーフまたはミックスの女の子
■13歳~35歳までの女性
■日本語が理解できる方
※ハーフまたはミックスでなくてもTikTokの投稿はOK。

ハーフという呼称自体がもつ問題について今回は触れません。にしてもこの絵面ひどい。日本にいるハーフの中でかなりの割合を占めているのが、お隣の国同士のハーフ、つまり日中、日韓のハーフだと思います。が。このキラキラ広告からは彼女らの(容)姿は抹消されています。応募条件にはバッチリあてはまるというのに。
どこが#媚びない女スタイル!?私たちの潜在意識に媚び媚びじゃないですか。   
このように、
モンゴロイド×モンゴロイドの両親をもつ=見た目は日本人とほとんど違いがないハーフ、つまり、(日本人自身が否定したいパーツを所持している、なんら憧れの対象にならないハーフ)は、日本に存在する人数としてはマイノリティではないはずなのに、基本的に「ハーフ」という日本語から排除されています。

(たとえば、「そんなことはない、韓国に憧れる女の子もたくさんいるじゃないか!」ということを言われた場合で考えてみると、韓国人のもつ(と思われている)「足が長い」「スタイルが良い」「色白」という(いわゆる白人を筆頭とする、ある種大陸の人種の)特徴が先ほどから述べている日本人の理想的なイメージそのもので、そこに羨望の眼差しを向けているということがわかります。

実は私自身も親が東アジア圏内同士のハーフなのですが、今まで一度も「ハーフだ!」と見破られたことはありません。必要な時に、そして話のネタに、自己申告する時はあります。
それに対して、目が大きく、鼻が高く、地毛が明るく、たて巻きロールの天然パーマの持ち主だけれども、いわゆる"純ジャパ"の友達がいます。
そこで、「『おばあちゃんがウズベキスタン人なんだぁ』という嘘を、彼女が初対面であった人に言ってみる」という実験を二人で画策したところ、なんと男も女もみんな100%普通に信じてくるのでめちゃくちゃ笑った、ということがありました。

たぶん、国籍的に"ハーフ"な私よりも、誰にも嘘を見破られなかった"純ジャパ"の彼女の方が、このTikTokのオーディションで良い成果を残すことができるんじゃないでしょうか。

※ジョンソンアンドジョンソンの美白製品一部販売中止のニュースを先日みて、急遽下書きにためていた上記の文を公開しました。

※今回は東アジア系ハーフとして文句を言いたいわけではなく、その立場にいることでたまたま気づくことができた日本特有のルッキズムの構造について書いています。今まで述べてきたこと一切の人種的な概念に対して善悪という価値判断はないです。
そして"美白は善か悪か" "日本人に白人コンプレックスはあるか否か"というTwitterで交わされる二項対立的な議論に対して、イチかゼロかという見方ではなく、自分のことを棚にあげて構造をみつめてほしいという気持ちで書きました。

私自身、将来のシミを防ぐ、という言い分で美白化粧品をバンバン使っていますし、長年コンプレックスだった瞼のプチ整形もしています。脚をなんとか細くしたいと、万年格闘しています。実際に声を上げている、素敵な社会運動家達みたいに、"それらの一切をやめます ! "宣言をする勇気も忍耐力もないのです。ただ私は、社会の問題構造が内在するのを自認する、またその逆に自分のコンプレックスから問題構造に気づく、という作業を半ば意識的に繰り返して、構造の認識に努めようとしています。しかし残念なことに、細くなりたい、目を大きくしたい、という欲望とそれに準ずる価値観が、幼少からのコンプレックスとなり得るほど根深く刷り込まれているため、意識の面でも行動の面でも、そのルッキズムの構造のスパイラルから解脱する術は持ち合わせていません。自分の欲求を満たすためには、そうやって普通に迎合して暮らす方が快適ですから。とりあえず、せめてもの"自分にできること"として、この文章を書いているつもりです。

以上、"ダブルスタンダード"掲げる百瀬リミでした。
(みてわかる通り、私はニヒル寄りの理想主義者かもしれませんね。)

後半部分はまだ考えがまとまっていないので、これからも少しずつnote を更新していく予定です。


(以下後編で書きたいこと)
・アニメに投影された、白人への憧れ
=私たち(日本人)が見たい〈自己〉の姿、なのではないか
・「アニメ顔」の虚構性、そして名誉白人としてのアニメ顔
・日本における男性のルッキズムとの比較

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