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白衣ではなく作務衣に袖を通して

新年を迎え、ようやく世の中も日常らしい落ち着きを取り戻してきた。

今年は雪深い温泉地でご夫妻が営む旅館に住み込ませていただき、私は年越しをすることができた。外はマイナス10℃にもなる土地なのだが、暖かく心静かに過ごすことができる。

まだ流通が発達していない頃の、この土地では雪にはばかれるため越冬するため自前で漬けた野菜を食し、時には焼いて食べたことから漬物ステーキとなる文化ができたそう。

新年を迎えるというのはやはり特別なことのようだ。餅をこしらえたり正月支度に苦労することもある。昔話の笠地蔵のように、寝ている間に恩恵を与れるというのは現実世界ではなかなか得がたい。


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峰高い雪山と厳しい寒さ

ここ最近、なにか食べても美味しいと言えずにただ栄養のための食事をし、寝る場所も疎かに過ごしていたのだが、給仕しもてなし過ごしてみると当たり前のこれらのことが、基本となることを肌に感じ、少しずつ人間性を取り戻しつつある。

美味しいごはん   心休まるお風呂   温かい寝床

人はこれら物的存在を通じることで繋がり、幸せを感じることができるようだ。すぐに書き始めるつもりはなかったものの、この記事を読みやはり記録していきたい。

年末年始に開かれた大人食堂を訪れた都内にいる、ある青年。ここに出てくる人々のことを想像でしか語れないが、誰しもがこの危うさを程度の差はあれど抱えて生きているように思えるのは私だけではないだろう。

最初、おにぎりにしておいたのですが、そのうちおかまをドーンと置いて、ホカホカのご飯をよそって声をかけながら手渡していました。
それって家族みたいでしょ?

語られるこの言葉にローマ留学中の印象的なエピソードが引っ張りだされた。

5月だが肌寒くダウンジャケットを着る人も見受けられたその日は教会でランチサービスのボランティアをしていた。そこではサンドイッチを配る以外に人数は限られるものの教会地下でテーブルを用意しコースのようにもてなしていた。私はそこで席について料理を出す役割である。

イタリア語でうまくコミュニケーションを取れないが、運び動くことができる私は早く食事を出そうとキッチンにたむろっていた。そんな時にリーダー的な存在の彼はテーブルに戻るよう諭すのだった。

彼らが何よりも大事にしていたのは、テーブルで食事しながら話をする家族を提供することであった。単に食事を提供するだけならば配給のようにするだけでこと済むが、それが目的ではない。

しかしながら、今日食べるものがない、寝る場所がないなどの負荷が重く重なりあった状態ではそうはいかず、その目的に辿り着くまでには難がありようにも思えた。私たちが聞けば些細なことと思える揉めごとも余裕がなくなっていけば当事者らはにとっては必死だ。

このような活動を続けられている神父様が結局は心の貧困が問題なんですよね、という言葉には重みがある。

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囲んで座る真ん中には囲炉裏があった

心理面でも経済サポートも両者ともに必要である。ただ、その根底となる社会構造を考えるとやはり途方に暮れてしまいそうに思えるが、これら実践知を積み上げていくことがいま求められているだろう。

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