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私は今日も芋を掘る。

「ハムスターの睾丸ってバカでかいらしいよ」

その日は旧友2人の誕生日だった。
グループラインに「おめでとう」とメッセージを送ったら、偶然にも2人とも暇だったのだろう。
メッセージでのやり取りがそのまま続き、会話の終着駅はハムスターの睾丸となった。

ここで一番の謎は、何故、誕生日を祝うメッセージがハムスターの睾丸へと進行したのかだ。
メッセージのやりとりを見てみると、テンポよく会話の内容が変化しているのが分かる。
連想会話、または芋づる式の会話とでもいうのだろうか。

誕生日といえば生まれた日、生まれた日といえば出産、出産といえば性行為、性行為といえば男女、男女といえば浮気、浮気といえば2次元で、2次元といえば巨大な睾丸、巨大睾丸といえばハムスター。(その後その事実を知らなかった私はネット検索)

こうやって書いてみると、全く関係なさそうだった「誕生日」と「睾丸」がしっかりと繋がっているのがわかる。

過去にさかのぼってやり取りを見てみる。
誕生日の前は新年を祝うメッセージだった。
新年の抱負を出し合おうという流れになり、1人が必殺語「そう言えば」を導入し、会話がスタートしていた。
内容の移り変わりは以下だ。

新年といえば帰省、帰省といえば義理実家、義理実家といえば我慢できずに放屁、我慢できずに放屁と言えば肛門の締まりが問題、締りが悪いと言えば漏らす、漏らすといえばオネショ、「そう言えば」3歳の息子のおむつが取れた、「そう言えば」 その息子が公園にあるカバの像の尻の割れ目に顔を埋めた。
なんて恐れ知らず。
よし、今年は他人の目を気にせず、我々もあれこれ挑戦しよう。
と最後はうまい具合に新年の抱負に繋がっていた。

こういった、「芋づる式」の会話は女性独特のものなのだろうか。
我々の必殺語「そう言えば」が口から出ると、それまでの話題とはかけ離れた内容をぶち込んでくると思われがちだが、実際そうではない。全ては繋がっている。
会話の内容、または話している相手、状況から「そう言えば」と思わせる何かを連想して口走るのだ。

だから仕方ない。
誕生日がハムスターの睾丸につながることも、
配偶者(パートナー)と口論になり、過去の出来事を持ち出すことも、永遠に吐き出してしまう不満も。
芋づる式思考をもつ我々にとって、ごく自然なことなのだ。

その日も夫が夜中に使った食器を洗わずにシンクに放置した。

私「ねえ、夜中に使った食器は洗ってほしいっていつも頼んでるんだけど」

夫「ごめん、忘れてた。」

私「今日も、昨日も土曜日も私が洗ったんだよ」

夫「土曜日は出張で家にいなかったけど」

罪悪感を感じるどころか、口答えとは、強気じゃないか。
そういう態度が引き金になるんだぞ。このMめ。

私「そっか、じゃあ土曜日の件はごめん・・・あ、そうだ。出張で使った服、まだ出してないよね?
それからさ、何回もいうけど、トイレに靴下脱ぎ捨てるのもやめて、後・・・」

芋づる式に出てくる不満。
なぜだか夫が相手だと、芋を掘る速度が加速する。
そして哀れな夫はこの状況に慣れている。
適当に誤ってしまおうと思っているはずだ。

夫「ごめん、今度から気をつける」

やっぱり。

私「何度もお願いしてる気がするんだけど。そう言えば、この前だって・・。」

一度掘ったら最後、芋は次から次へと出てくる。
最後の芋を掘り起こした頃、夫はまた謝罪する。これも夫にとっては想定内。いつもの流れ作業だ。

夫「ほんと、悪かった」

芋を掘り尽くしてしまった私は、夫にコーヒーを入れさせた。
テレビを付けると丁度映画が始まったところだった。
映画に集中したそうな夫を無視し、いつも通り会話を始めた。
夫がむっとしているのがわかる。

私「ハムスターの睾丸がクソデカいって知ってた?」

夫「知らなかったけど、それが何?」

私「それが何って・・・いや、旧友に聞いて初めて知ったから、夫は知ってるかなっと」

夫「ふーん。知らなかった」

なんてつまらない人間なんだ。
睾丸があるんだから、もっと興味をもてよ。

私「びっくりしない?あの可愛いハムスターの睾丸が、だよ?」

夫「ないわ」

そんな夫を見て思い出した。
以前、ナマケモノが屁をしない話をした時も無関心だったっけ。
まてよ、そういう私だって、今まで睾丸に対して何か特別に思考したことはあっただろうか。子孫繁栄という観点から見ればものすごく重要な役割を担っているというのに。そう考えると、私は随分と睾丸に失礼だったのかもしれない。愛する子ども達だって、もとを辿れば夫の睾丸出身。
脳内で繰り広げた芋づる式思考。
それは途切れることなく思考の外にもつながる。

私「睾丸に感謝するのも大事かもね」

夫「まじで意味不明。笑」

そうやって、馬鹿みたいに笑っていればいいさ、この睾丸め。
でも、まあ、確かに突然の「睾丸への感謝は」意味不明だったかもしれない。
でも長らく一緒にいるわけだし、そろそろ私の「芋づる式思考」にも慣れてもらいたい。
その前に、どうして何度頼んでも皿を洗ったり、汚洋服をかごに入れてくれないんだろうか。
私が芋づる式をやめられないのと同じ理由(本能)なんだろうか。
そうなると、個人差に加えて性差もあるから理解できないのは当たり前か。
変えられない部分はお互い様。
そういうことにしておこう。
寛容な私はそう結論を出した。

そして今朝。
いつも通りシンクには放置された食器、トイレにはくたびれた靴下が。ついでに私の小説がトイレのタンクの上に乗せられていた。

あの、睾丸やろう。
今夜はリアルな芋を投げつけてやる。
的は睾丸。
躊躇はしない。

























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