書く価値、読む価値
誰よりも早く情報を手に入れて、誰よりも早く食べてみて、誰よりも伝わるように何かをプロモーションする。そんなふうにSNSを使っている人もいるかも知れません。
例えば、知り合いのいないネットワークの中だからと、自分らしさなのか、はたまた演じられた自分なのか、よくわからないままに振る舞っている人もいるのではないかと思っていたりします。
僕自身のことを考えてみると、普段はエッセイを書いていて、その内容は、比較的穏やかと言われることが多くて。読んでいただき、ありがとうございます。
ちなみに、noteの繋がりでリアルな知り合いは数人程度です。
自分のこと、子どものこと、妻のこと、そして仕事のことなど、ありのままを書いています。
ただそれだけのこと、なのだけれど、この投稿が3年以上も続くことになるとは思っていませんでした。
美味しいもの、楽しい場所、美しい作品、どれも魅力的だし、そういう情報がありそうな投稿を読みたいとも思っています。
かたや、書くとなると途端に自信がなくなってしまう。そんなふうな投稿が書けないと分かっているからです。こだわりがあるわけでも、特別な情報筋があるわけでもない、ただの人が何を書くというのか・・でも書けるのだから、書いている感じなのです。
noteの活用法として、好きなもののことを書く、ということがあげられています。
何を書くか自由だから、どうぞどうぞ、と言われると書くことに困るものかも知れない。
でも、好きなもののことを書くことで、自分自身が楽しくなれるのです。写真を撮る時に、シャッターが落ちる直前、好きなもののことを思い浮かべると、目が光って(見えて)良い写真が撮れると聞いたことがあります。きっと、そんな時間を過ごせるのでしょう。
誰かに話しているように文の順番を考えたり、魅力を文字で伝えることの難しさに四苦八苦することは、書き手ならみんな通ってきた道かも知れません。
好きすぎて語彙が・・ということも言われているけれど、僕自身は、好きなものにはちゃんと理由があるはずとも思っています。
おそらくは、憧れや安心感、楽しさ、喜びを与えてくれるものだけれど、そこに何故?があると、冷めてしまうのでしょうか。好きな理由を考えてみたら、新しいものが見えてくることもありそうです。
noteの街には色々な人がいて、それこそ話し方もさまざま。敬体や常体のような、シンプルな文体だけでなく、コッテリの口語やゴリゴリの論説文もある。
ふだん僕は、話し言葉の文は短い。
書いている方が長く続けられる気がしています。つまり、話し続けるより書き続ける方が出来そうなのです。
ただ書くなら改行も言い換えもいらない。でも、それらを少し意識して書くのは、読み手の存在があるからだ。
たまに、フォローしていない方の投稿をちらりと読むことがある。
そんな時、読み手のことを考えていないと感じる投稿は、なんとなく読めなくなってしまった。面白いとか、ためになるとかって思う前に、何か気になってしまうようで、最後まで読まずに閉じてしまいます。
みんな自由に書いているから、読みたい人が読めばいいし、読めるものだけ読んでいたらいい。
さきの試験で、文章理解という寡黙として、「ことばの限界」について書かれた論説文の出題がありました。
極端な例えではありますが、ナスカの地上絵のような広い場所に、ことばを置いたら、毎回飛行機で見下ろさなければならないともありました。まぁ読めないでしょうよ(笑)
手に持って広げられる大きさ、ことばを読む活動が続けられる生命は、人間固有のものだと思います。それを読んで、書くことの価値を考えたのでした。
書き方にもよりますが、書くことは他の活動を排除しなければ難しいかも知れない。もちろん思索することは必要だけれど、それは自らの身体の中で完結できるものです。
書くための時間は、そのほかのことを”しない”で紡いでいるのかもしれない。
反面で、読むことも同じようなことが言えそうです。限られた時間や命の中で、ことばを読んでいる時間、ほかのこともできたはずなのですから。
試験時間中だったけれど、そんなふうに考えていたら、noteで続けている意味がわかったような気がしてきました。
試験に向けて、書く時間を減らしていたことで、書くことの価値を、読んでもらえることのすごさを、改めて知ることができました。その試験時間も限られているから、あんな文章に出会えたことにも価値を感じます。
書いてくれた人に感謝したいから、こうしてnoteに書いてみました。
そして、読んでくれれば、見知らぬ筆者も、僕も、とても嬉しい。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました! サポートは、子どもたちのおやつ代に充てます。 これまでの記録などhttps://note.com/monbon/n/nfb1fb73686fd