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命のことを考える瞬間がある

誰だって、命のことを考える瞬間があると思う。

自分自身のことを考えられるのは、意識がある時だから幸運かも知れない。多くは、身内に何か起こった時、例えば死がグッと距離をつめて来たと感じられる時だったり、反対に新しい命が生まれた時にも。考え込む・・わけではないけれど、何かを感じたり、思いを馳せるような瞬間があるのかも知れない。

身内でなくても、そんな存在がいることもあるだろう。

この数日に、友人が相次いでSNSで「子どもが生まれました」と発信していた。同じような年代で、新しい命を授かるというニュースは、とても嬉しい。また、なんとなく年齢的にも、そんなに多くは起こらないことだと思われる。おめでとう。

ふわりと気持ちが上がっていく感じがして、その知らせにリアクションしたり、コメントしたりする。自分の時もそうだけれど、子どもが生まれた時の感激は、なんとも御し難いものがある。涙になるだけでなく、こうしてSNSで発信したくなるとか、誰かに言いたくなるとか、不思議な力があるものだ。

そして同じようなタイミングで、実はパートナーが亡くなっていた、という発信をした友人がいる。とても驚いた。そして、とても悲しい。その友人の、パートナーの方は存じていないが、ほかのSNSなどで、その友人にも子どもがいることを知っていた。

塞翁が馬

こういう知らせに触れると、この言葉を思い出す。相手だけでなく、もしかしたら相手に起こったことは自分にも起こっていたかも知れないし、これから起こるかも知れない。

常に最良の選択ができているかは全く自信がないけれど、命のことを考える瞬間に、ちゃんと考えてみたり、誰かの命に思いを馳せたりしたい。嫌がらずにいないと、やっぱり自分や自分の周りにあった時に、狼狽えて、ことによっては逃げ出してしまいそうだ。

慰めのつもりで「そんな年齢になったのか・・」と考えてみたけれど、それはすぐに打ち消した。友人にとって、いやパートナーを失った人にとって、年代は全く関係ないことだからだ。

気持ちの整理などできるはずがないだろう。


親の病気や怪我が、次第に重たさを増している様に感じるのも「そんなはずはない」とどこかで信じてしまっているからだと思う。元気な親のまま、歳を取っているはずだと。

子どもたちが熱を出すたびに、苦しそうだな・・と不安になる。治れば少し成長した様に感じられる。だから、僕はあまり重たく考えないようにしているのだけれど、慎重になっていれば防げた発熱はあるんじゃないかと、やっぱり気を揉んでしまう。

ときに、我が家の第三子は、生きていることを強く感じる瞬間が多くある。当たり前じゃなく、生かされているのだ。油断しがちな親に、立ち止まらせるきっかけをくれる。

友人は強い、きっと弱音を吐かずに今まで過ごしていたのだから。知らずにいた僕はきっと弱い。だから、ここに残しておきたい。

生であっても死であっても、友人やその家族が穏やかに、どうか幸せを感じながら、暮らしてほしい。




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