見出し画像

月曜日の図書館17 節約の絶対正義

ラミネート加工をする器械は思い立ってもすぐには使えない。あたためる時間が必要なのだ。スイッチを入れると、じゅいーんという音がして発熱をはじめる。どのくらい待てば適温になるのかは、取扱説明書を読んだことがないので分からない。いつも一か八かでシートを挿入してみて、たいてい早すぎるのでくっついていないし冷たいまま排出されて悲しい思いをする。ならば十分にあたたまるまで他の作業をしていようと、スイッチを入れたままその場を離れていると、節電意識が刷りこまれた他の職員に目ざとく見つかって(部屋の電気ごと)消されるという悲劇に見舞われる。
職場はひとりじゃなくみんなで使っていて、お互いの頭の中をのぞけるわけじゃないのだから、どの作業を、誰が、どんな目的で行っているのか、きちんと伝え合わないといけない。働いていると、こんな初歩的なトラップで転んでしまうことがよくある。
休館の状況は刻一刻と変化し、その度に告知のポスターを作り替えねばならない。広報担当になったK氏は「中止になりました」とか「当面の間」とか「という恐れがあります」とかいう文面を数日おきに作り続けた結果、「いったん器械のスイッチを入れ、『作業中さわらないで』のメモ紙を貼った状態で事務室に戻り、あたたまるのを待ちつつポスターを印刷すればよい」というラミネート絶対法則を導き出した。
できたてほかほかのポスターを胸に抱えたK氏は、「秀吉がぞうりをあたためてくれたみたい」と満足げに言った。

器械はなぜか研究室に置いてある。

晴れている日は、近所の公園でごはんを食べる。という話をLちゃんにしたら「なんて優雅な習慣...!」と感動していたが、実際にその場に(まばらに、密集はせず)たまっているのは、わたしかくたびれたおじさん達だけである。おじさんのうち何人かはハトにエサをあげるので大変迷惑である。たまにギターを弾きながら歌い出すおじさんもいる。
食べはじめると早速スズメが寄ってきた。都会のスズメは厚かましい。触れるくらい近くまで寄ってきて、目が合っただけでは逃げない。それどころか小首をかしげて見つめてくる。自分がどんなポーズを取ればかわいく見えるのかを、知っている。
一度Lちゃんもいっしょにベンチでごはんを食べたことがあるが、生き物全般が嫌いなLちゃんは、押し寄せるハトやスズメに本気で憎しみの表情を浮かべ、それ以来わたしともごはんを食べていない。

昼休憩を終えて外から建物の中に入るとき、一瞬ためらう。電気の消えた廊下の深い闇に、吸い込まれそうになる。一度この闇になじんだら、元の世界に戻れなくなるのではないか、と思う。
事務用の入口には、休館していようといまいと最低限の明かりしかない(事務室から漏れてくるわずかな光だけを頼りに目的地まで進むしかない)。前に知り合いの本屋さんが訪ねてきたとき、あまりの廃墟感にすっかり怯えて友好関係にまでヒビが入りそうになった。

古文書に触るときは、手を洗う。指輪や腕時計は外す。マニキュアは塗ってはいけない。飾り気のない手と心でのぞむのだ。
丁数(ページ数)を数え、大きさを測り、破れや虫食いがないか調べる。和紙のぺりり、ぺりりとめくれていく音を聞いていると、雑念は去り、だんだんと精神は研ぎ澄まされていく。
というのが望ましいが、現実にはそのまま眠りの世界へと引きずられそうになることが多い。後からみんなの調査票をチェックすると、広辞苑並みの丁数になっていたり、豆本としか思えないサイズが書かれていたり、果ては空欄のまま提出する猛者もいたりして、睡魔との戦いにまったく勝てていないことが浮き彫りになる。
人間とは、かくも弱い生き物なのだ。
悠久の時を経て令和の世まで読み継がれた貴重な本には、それ相応のほこりゴミその他がまとわりついている。要するに非常に体に悪い。油断して近寄ると咳や鼻水が止まらなくなるのだが、ハンカチを折っただけの即席マスクでも、つけてみるとそれらの症状は出なくなる。ウイルスにも効果はあるのだろうか。
ハンカチマスクは毎日違う柄だから見てて楽しいと、人間には非常に評判が良い。

手を入念に洗う。
思えば去年の子ども向けサイエンス講座のテーマが手洗いについてであったことは、未来を予見していたというか、先見の明があったとしか言いようがない。わたしも子どもたちに混じって「洗い残した部分がわかる実験」に参加した。汚れが残っていると、特殊な光に当てたときに白く見える仕組みで、わたしの両手は見事に真っ白であった。
汚れを落とすためには皮膚に遠慮していてはいけない。鬼の形相で、里芋の泥を落とすみたいに容赦なく洗わなくてはいけない。
潤いは失っても、命は守れるのだと、しわしわの手が言う。

係長は奥さんから、前月の水道代がいつもより上がっていたので、もっと節水しなさい、と厳しく命じられたそうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?