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月曜日の図書館49 いざというときは

館内整理の休館日を利用して、救命活動の講習がある。本棚の前に、たくさんの上半身が並んでいる。
消防署から来た講師のおじさんは、わたしたちを地べたに座らせて説明をはじめた。妊娠中のLちゃんがいすを持ってきて座ると、大丈夫です、他にもひざが悪い人がいたら無理しないでください、とずれた気遣いをした。
心臓マッサージをすると、上半身は小気味よくこきゅっ、こきゅっ、と音を立てて沈む。学生のころから唯一わたしの得意な実技・心臓マッサージ。T野さんはもっと強く押して、とダメ出しされていた。AEDの練習のときは、いきなり電気ショックを与えようとしてまた注意されていた。落第生だわ、と嘆く。
ひととおりの実習を終えたら、上半身とAEDを各自でアルコール消毒して袋にしまい、修了証をもらった。地べたに体育座りしてまとめの話を聞きながら、ズボンの裾からのぞく脚を眺め、毛を剃っとけばよかったなあ、としみじみ思った。

もしくは長いくつ下を履けばよかった。

練習では落第生でも、T野さんは本番にすごく強い。前にお客さん同士がけんかして殴り合いになりかけたときは、T野さんがとっさの判断でひとりを羽交い締めにしたおかげで事なきを得た。その場にはわたしをふくめ何人か職員がいたけど、他の誰も動くことができなかった。
さすが姉貴、かっこいいぜ、とわたしは心の中で打ち震えた。

その日は、図書館を題材にしたドキュメンタリー映画とのタイアップで、トークイベントが行われていた。羽交い締めにしていたそのすぐ近くでは、ちょうどイベント後の館内見学ツアーが行われていたのだった。
図書館ってすてきなところですよ、とさんざん聞かされてキラキラした気持ちになった参加者にこんな光景を見られていたらと思うと、かちあわなくて本当によかった。

あるいはかちあっていたら、映画のつづきのような味のあるシーンが撮れたかもしれない。

それに引きかえわたしは、何年たってもトラブルにはちっとも慣れない。コインロッカーに100円を入れてないのに100円が返ってこないとだだをこねるおじさんとか、誰かが少しでもしゃべるとうるさいうるさいと怒鳴りつづけるおじさんとか、アズマさんと一度呼んだだけでキレるヒガシさんとか、どんなふうに対処したらよいかわからず途方に暮れてしまう。

何のために心臓マッサージのスキルをみがいているのだろう。このままわたしのゴッドハンドは宝の持ち腐れになるのか。

Lちゃんが産休に入った後、代わりに来てくれる人が見つかるだろうかという話題になる。期間も限られているし、土日も出勤、しかも給料は安い...となると、かなり厳しそうだ。
わきあいあいとしたとっても楽しい職場ですと宣伝したらどうか、とわたしが言うと、S村さんが難しい顔をして、嘘は言ってないけど、でも何かが決定的に違う、と言った。

人種や性別、社会的身分に関係なく、いい人も悪い人も、やさしい人もすぐキレる人も、誰もが自由に利用できて、知識や娯楽を平等に享受することができる、それが公共図書館。

AEDが違うフロアにあって、自分以外誰もいない場合は、取りには行かずに、心臓マッサージをつづけること。
うちの図書館にはAEDは一階にしかない。たとえば二階の事務室で残業しているのが二人きりで、片方が倒れたら、もう片方は救急車が来るまでひたすら心臓マッサージをつづけることになるのだ。そのときこそ、ゴッドハンドの出番。

雇用条件に【緊急時心臓マッサージ完備】と書くのがいいかもしれない。


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