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月曜日の図書館19 つかずはなれずの問い

夢の中で、わたしは学校の廊下を歩いている。「1年1組」と書かれたプレートに、よく見ると男の生首がぶら下がっている。生首なのに生きていて、わたしを見ている。走って、教室に逃げ込んだ。ドアを閉めようとすると、なぜが体が完成している男が半身をねじこませてくる。突き飛ばして鍵を閉め、一息ついて振り返ると、目の前に男が立っていた。

目が覚めると朝の4時だった。怖すぎる。あまりに怖いのでラジオで深夜便を聞きながらもう一度目を閉じる。男の顔はとても具体的だったが、全然知らない人間だった。ラジオでは人間国宝のおじいさんがもしゃもしゃと滑舌悪くしゃべっていた。

実際に同じことが起きたら、さほど怖いと思う間もなく、呪われたり殺されたりするのだろう、と思う。

あたたかくなったので、カエルのケージに敷いていた保温パネルをしまった。
スーパーに行き、今年初めてのアイスを買う。職場では季節を問わず冷凍庫にアイスが常備されていて、規則正しく食べ続けた職員が全員健康診断で悪い判定をもらったので、今年はお預けかもしれない。夏場は買ってくれるかもしれない。
ベランダに出てあずきバーを食べた。奥歯で噛み砕いて食べる。事務室には窓がなく、マイクロフィルムやら戦前の本やらがごったに置いてあるので、よどんだ空気に当てられて、しきりに冷たいものが食べたくなる。
スーパーではおばちゃんたちが買い物カゴぎゅうぎゅうに食品を買っていた。なぜかシュークリームを猛然とカゴに入れ続けているおじさんがいた。シュークリームを好きな人は、ちょっとだけやさしそうに見える。あずきバーは何でこんなに固くておいしいのだろう。

もし歯が欠けてしまっても、二度と生えてこないのだ、と気づく。皮膚は再生するのに、爪は生えてくるのに、どうして歯だけは一回きりなんだろう。長い歴史の中で、歯が何度でも生えてくるように進化した方がいいと思った人はいなかったのだろうか。思ったとて、誰に申し立てたらいいのだろう。

数ヶ月前、展覧会を開催した美術家から、観覧のお礼の手紙と、ちょっとした冊子が届く。いつもは書店などで配布しているが、今回はこんなご時世なので、個別に郵送することにした、とある。芸大の授業がオンラインになってしまって、講義ならまだしも実技はとても教えられない、と書いてあった。
感染する仕組みは理解していても、本当にその通り、密室にひとりでも感染者がいたら瞬く間に拡散し、そしてぽろぽろと死んでゆくのは不思議な気がした。科学的な根拠に基づいて提唱された答えは、悲しい誤算はあっても大筋で正しかった。不測のうれしい事態はひとつも起こらなかった。
お昼に近所のパン屋に行ったら、この美術家が作った本が、品のいいオブジェとともに、さりげなく置いてあった。

あちこちでマンションの建設が続いていた。自粛が呼びかけられてからも、作業は止まないようだった。ドリルの音や資材がぶつかる音、おじちゃんの怒声、ぜんぶが心地よかった。休憩中なのか、数人で集まっていたおじちゃんたちは、道路の端で上体起こしをしているランナーを指差して、びっくりしながら見ていた。
頭がひとつしかないケルベロスみたいな犬を散歩させているおばさんとすれ違った。

夜の間、建設現場では、ポンプのような、何かを汲み上げているような音がずっと聞こえる。銭湯が建つのかもしれない。
狭いベランダからでは、月はときどきしか見えない。世界中、どこにいても月が見えるというのは本当だろうか。理屈を考え始めたら理科のテストで32点を取ったときのことを思い出してやめた。
スマホでポンプの音を録音する。
光の反射の授業のとき、班ごとに太陽の光を鏡で反射させて次々に伝達していく、という実験があった。わたしは最後まで光を受け取ることも、送り出すこともできなかった。
近くでパンッと、ピストルのような音がして、目を大きく見開く。びっくりしたときは、なるたけびっくりした表情をするといい、平気なふりをすると逆に怖さが長引く、というのが最近の発見。
わたしが迷子にしてしまった光は、今ごろどこをさまよっているのか。

半数出勤で1ヶ月くらいT野さんに会えていない。S村さんにも会えない。連絡ノートに書き込んでも、本当に伝わっているのかよく分からない。
紹介文を書きたい新刊本に「これで書きます」とふせんを貼っておいたら、その下にS村さんから「確かにすごい本です」と下手な字で書き込みがあった。排水管の歴史が一冊にまとまっている本だ。
会えなくても気配は残っている事務室で働くのは切ない。そう思えるくらいに大切な人たちが、とうとうわたしにもできてしまった、と思った。
早く会えたらいい。彼らが背景に戻ってしまう前に、早く会って、カエルの話や、ポンプの音に耳をすまして、いっしょに笑ってほしい。


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