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月曜日の図書館32 サーカスのように毎日を過ごしたいと思う

サーカスのように毎日を過ごしたいと思う。本物は一度も見たことがないが、わたしは間違いなく、サーカスがどういうものか知っている。わたしだけではなくて、世界中のみんなが知っている。だから、マスクで蒸し焼きにされたり、ハグする相手を奪われたりすると、自分の中のサーカスが足りなくなって、心が乾涸びるのだと思う。

イヤホンを外した途端、セミの声が襲いかかってくる。騒音を測る機器を作動させたらショートしてしまいそうな勢いだ。心なしか肌もびりびりする。前の課長は声がよく通る人で、ミーティングのときにはその波動で(?)机の表面がかすかに揺れた、それが面白くて必ず一番前の席に座って聞いていたのを思い出した。図書館へと通じるけもの道の前で、おじさんが野生のポケモンと対峙している。こんな轟音も慣れたら平気なのに、館内で電話をしている人の声に神経を尖らせてしまうのは何故なのだろう。

カードを再発行してほしいと窓口にやってきたおじいさんの名前が、姓も名も完ぺきに「楽しむために生まれてきた」響きでものすごく感動したのに、その後どうしても思い出せない。カードをなくしたのは一昨日だと言う。もしかしたらまた出てくるかもしれないので、もう少し探してみてください。そう言って、身分証を引っ込めさせた、その一瞬に読み取った名前だった。辛いことがあっても名前を呼ばれる度に、ショベルカーですくわれて明るい方へぽーんと投げられるような気持ちになるだろうと思った。

感染者がどんどん増えているのに、館内はごった返している。ぐずっている子どもの声をよく聞いてみると「お金を払ってお父さんの顔を描きたい」と訴えていた。

書庫出納の申し込みも次々とくる。いつもなら体が悲鳴をあげるのに、今日はすいすいと軽い。数日前からサプリメントを摂り始めたからかもしれない。健康診断に行って、朝なかなか起きられません、枕が合ってないのでしょうかと相談したら、それは貧血だから鉄分を摂りなさいと言われたのだ。てっきり心の問題だろう、どうせ気分転換しなさいとかアロマで気を落ち着けなさいとか適当なことを言われるのだろうと思っていたら、すごく具体的なアドバイスだったので、その足で早速薬局に寄ったのだった。
人工物に頼らない丁寧な暮らしが壊れる音がする。めりめりめり。背中に亀裂が走る。分厚い皮を脱いで、生乾きのやわらかいわたしが勢いよく羽を震わせる。

おばあさんから調べ物の電話がかかってきて、必死で探して最短時間で連絡をしたのになかなか出ない。やっと出たと思ったら、今テレビを見てるからすぐには行けないと言う。わたしとやりとりしている間も早くテレビの方へ戻りたそうに適当に相槌を打つ。
麻の葉模様の描き方が載っている本がほしい。図案集はたくさん見つかるが、具体的に自分で描くにはどうしたらよいかが分かる本はなかなか見つからない。やっと、刺し子の本に下絵の描き方として載っていたので、喜び勇んで電話したのだった。
今日は他の日より早く閉まる。やきもきしていると時間ぎりぎりになっておばあさんはやってきた。カードをなぞると他にも予約している本があって、しかも取り置き期限が今日まで。そのことを告げても何を予約したかすっかり忘れてしまっていて、今は麻の葉模様のことで頭がいっぱいである。この本は借りる、こっちはコピー、このページにしおりをはさんで、いらん紙でいいからはさんでちょうだい。わたしは館長の一声で作られた、フォントもレイアウトもいいかげんな「本を読む前に手を洗おう」のしおりをがんがんはさんであげた。
ちょっとした言葉や態度をあげつらって、傷つけられた、侵害されたと怒ってくる繊細な人が増えている世の中にあって、こういう自分の気持ちに正直で芯が図太い人の存在はありがたい。貸出とコピーの手続きを済ませてから、わたしはもう一度予約の本も絶対借りに行ってくださいね、と念を押した。

帰りの地下鉄は窓が大胆に下げられていて、風がびゅうびゅう吹き込み、乗っている人たちはみんな無表情で変テコな髪型になっていた。

ライブ会場はいつもに比べたらだいぶ人がまばらだった。入口で消毒、検温、連絡先を書く。ドリンク代が100円上がっていた。食べものを注文する人も少ない。前の席の人は両手にゴム手袋をはめていた。
覚悟を決めて今日は来てくれたのですね、とミュージシャンが言うと、みんな笑った。正しい答えはまだない。どこまでを守って、どこからは従わないか、何を手放して、何を譲らないのか、そういうことをしんしんと考えて、これからも自分で選んでいくのだ、と思った。
演奏はとても素晴らしかった。配信とは全く比べ物にならない美しさだった。小学校で使われていた子ども用の椅子に座って、みんな静かに聴き入っていた。
自分を独りだと思いこんで動けなくなっている人たちに、手が差し伸べられますように。自分を傷つけるか、他人を傷つけるかしかできないほど追いつめられた人たちの起こした事件について触れた後、彼女は言った。

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