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月曜日の図書館24 目覚めても

返却ポストの真下に蚊取線香が落ちていたので、持って帰って家で焚く。箱ほしさに喫茶店からもらってきたマッチは、擦ったらちゃんと発火した。近づけると、蚊取線香はおとなしく煙を出しはじめる。今日、人生で初めて蚊取線香に自分で火をつけました。もし今、地震が起きて、かわいいマッチもなくなったら、どうやって火を起こしたらいいか知らない。スマートフォンで検索しようと思い、めんどうくさくなってやっぱりやめた。

うちには蚊は一匹も出ない。

K川さんが、返ってきた本を次の利用者に手渡すまでのチャートを作ってくれる。ポストに返された本、分館から返ってきた本、消毒した本、できない本、職員が調査で使った本、それぞれ処理の方法と滅菌にかかる(とガイドラインに書かれている)日数がちがう。さらにそれらを誰が何時に担当するのかを書き連ね、チャートは複雑系の世界をなしている。完成したものをみんなで確認してみると、T野さんがカウンターとポストのかき出しに同時に出現することになっていた。わたしはお昼ごはん抜きであった。「よろこんで!」とT野さんが泣きながら言った。

ヤモリ柄の開襟シャツを着たおじさんが "ツジノボー" の本が読みたいと言うので、それはどんな棒なのだ、占いに使うグッズか、と思いながらよくよく聞いてみると"辻惟雄" さんのことであった。若冲研究の第一人者らしい。本棚まで案内すると、おじさんが若冲をいかに愛しているかや展覧会に行った自慢話などなどがはじまり、やっと終わってカウンターに戻ってきてから、あのシャツをどこで売っているのか聞きそびれたことに気づいた。
若冲の描くカエルの絵はあんまり上手じゃなくて、とてもかわいい。

フェイスガードがキリストの茨の冠みたいに頭にきりきり食いこんでくる。課長に蚊が攻撃してくると訴えると、俺は年寄りの血だから刺されんなあとにこにこして言う。右のほほを刺されたら、左のほほを刺される前に返り討ちにせねば。
小さな女の子が返却ポストの真下にうつ伏せにつぶれている。お父さんが大好きなアンパンマンの絵本を勝手に返却したので、それに対する抗議である。早く他の本を借りよう、と言われても低くうなるばかりだ。わたしは「エクソシスト」に出てくる女の子の首がぐんにゃり曲がるシーンをかわいく描いたら、その絵柄でTシャツが作れないかな、とぼんやり考えている。のどかな午後。
庶務係の人が、玄関に置いている除菌スプレーを節約したくて、噴射口のところを何重にも輪ゴムでしばり、ちょびっとしか出なくしてしまう。

久しぶりに事務室にやってきたDが、絵本「ねないこだれだ」柄のTシャツを着た愛娘の写真を見せてくれる。自分用のサイズも買ったそうだ。職場に着てくればいいのにと言うと、庶務係はそんな雰囲気じゃない、と顔をくもらせる。ちょくちょくこっちに来てもいいんだよ、と言うと、こんな空気が悪くて暑いところなんか用もないのに来るもんか、異動になってせいせいしてるんだから!などと強がるのだ。
夜になかなか寝ない子はおばけにされてしまう。おばけの国へ、連れ去られてしまう。そんなわくわくするTシャツを着た状態で除菌スプレーに輪ゴムを巻きつけるのは、確かにやるせない。

蚊は何の役に立つんですか?と聞いた子に、じゃあ人間は何かの役に立ってるの?と先生が問い返した回が、わたしのベストオブ子ども科学電話相談。

大学生のとき、永遠を感じるものは何かというテーマの講義があり、学生のひとりがにおいだと思う、知ってるにおいをかぐと、一瞬でそのときに気持ちがタイムスリップする、と言っていた。
蚊取線香を焚くと、いつでも夏休みの終わりに引き戻される。祖父は生きていて、祖母は今みたいに嫌味っぽくなくて、いとこは事故に遭う前で、わたしは子どもで、火の始末の心配をすることなく、蚊に刺されながら花火を楽しんでいた。愛想笑いをしたり、会話が途切れないよう気を遣ったりしなくてもよくて、祖母がふかしたとうもろこしを毎日食べてお腹をこわしたりしていた。祖父母のうちに置いてあった「はだしのゲン」がわたしと〈マンガ〉との初めての出会いで、巻数の順に読む、という規則を知らなかったために、でたらめに読んでゲンがいきなり原爆で焼け出されたり、そうかと思えばまだ弟が生きていたりして、混乱しながら夢中で読んでいた。

においは永遠。本当はわたしはまだ子どもで、蚊に刺されても笑顔でありがとうございましたーと言ったり、お昼ごはんが食べられないほど働いている今の方がまやかしなんじゃないか、という気がしてくる。

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