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合気道の武術性を学ぶために

 負傷を避けるだけでなく健康上左右の均衡も大事な要素であり、効果的な稽古ということなら一つの技をその都度左右の動作で反復することに異論は無い。
 たとえば右で突いて来たら逆半身入り身転換・左手で取って小手返し、左で来れば取りは右足から入り身転換・右手で小手返しというように、通常の型稽古を行う限り左右の選択や速度は両者の約束に則ってお互いに効率よく実施される。これにより、互いの恊働に基づき一つの技に限って初動から終末動作、残心を身につけることが出来る。
 一方、型稽古の対極にあるのは、取り受けの設定がなく互いに相手が敵となり自由に勝敗を競うなかで技術を体得することであろうが、それでは実際に稽古であり続けることができない。稽古である限り、互いを尊重し効果的に合氣を修練し続けることのできるものであるべきだ。
 武道としての緊張感と達成感に着目すれば、受けの攻撃初動において左右いずれの上肢や下肢を用いるか、上段か中段か、速さは、など予見不能であることがまず大前提である。受けにとっては取りの先手が予見できないわけであるから表技や掴み技全般をひとくくりにして別に稽古するのが合理的であろう。従って、同時打ちかあるいは後手で氣を発して相半身か逆半身に接したところから相対動作が始まり、勝ちに至る技を産むことこそ稽古として望まれる
 つまり、対峙する者との距離に加えてその上肢、通常は片手、がまず動き始める瞬間を我が方の動作の起点とするしかない。そこで取りとなるべき者が一瞬何を動作するか。吸気か呼気か。基本中の基本である限り選択の余地は無く、単独呼吸法と単独基本動作に限られる。なぜなら、互いにどのような攻撃でどの相対基本動作を行うか、まして最終的にどの技が産まれるかは、初めての接触の更に前段階において知る由もないからである。
 『武道論:富木謙治著』では、『敵の機を知る上で直感による境地に進むのが理想であろうが、修行者の段階としては五感のはたらき、とりわけ見ることが大切である。』として、『古来、一眼、二足、三胆、四力をもって武道の要訣とした。』と記されている。四力の力は技術力である。その技を発揮する体力や筋力などの身体能力であるとされる。型稽古の習熟で身につけることのできる技術を最後に持って来たところと、手や腕の動作をあえて取り上げないところにこの教えの尊さがある。従って、受けが手をどう動かすか、取りはどちらの腕をどう合わせるかということなどは取るに足りない、いや、むしろこだわってはならない要素であるという教えでもあろう。
 また、『形で覚えた個々の技について、その機会のつかみ方や、技と技との連絡変化などのはたらきを教えるのが自由意志による「乱取り練習法」で』あり、この場合、自由意志とはいえ競技規則に則ったものであるから、『人間関係における自主的規律を尊重することに繋がり、体育としての教育目的を達成することができる』と記しておられる。 
 競技武道におけるそのような稽古方法でさえ、ある意味では規則という型の中で行われるものであるから、合氣道の伝統的稽古が互いの自由意志で、しかしある程度の状況設定をしたうえで、行うことも可能であろう。そこで、基本の稽古を、相対基本動作とそれによる技の成立、所謂型稽古とするなら、応用の稽古は受けの初動に対する単独基本動作とそれによる相対基本動作の成立とすることが出来る。この分け方は技の成立過程に着目すれば逆の名称でも差し支えない。相対基本動作の成立とは、受けの魂氣と魄氣の結びを解き、取りの魂氣と魄氣が受けのそれぞれに結んだ状態を言う。また、技の成立とは取りが残心を示し、受けは魄氣の丹田への結び(正立)を失い中心が地に結んだ状態と表現することができる。それは、互いの結びから再び取りが単独動作に戻った瞬間でもある。
 以上のことから、合氣道をより達成感のある武道とするためには、始め応用の稽古に専念し、基本の稽古をその後に行うという段階を踏むのも一つの方法である。
 乱取りといえどもそれぞれの格闘技の基本の上に成り立つものであり、あくまでも礼節を維持するに耐えられるものであるべきだ。

以上、神気館のサイトより

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