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ずしん、という音がする

この秋で26歳になった。あんまりニュースを見ない大人になってしまった。記者志望だった過去の自分に「やっぱりダメだった」と謝りたい。



自分以外の感情を演じられなくなったと思う。学生時代は気力も体力も有り余っていて「社会の痛みすべてを感じないと」と思っていた。けれども今は、広い世界を救うことより、なりたい自分になりたいし、欲しいものだけが欲しい。



でもだからこそなのか。ひとつひとつの社会問題に感じる痛みが「ちくちく」から「ずしん」という重たい音を立てるようになった。



たとえば夏場に何度も報道された「子どもが幼稚園のバスに置き去りにされた事件」。昔ならFacebookで解決策はなかったのかと声を荒げていた。今はテレビを消してしまうほど動悸がしてくる。一方で、またミサイルが飛んできたという話は「いい加減にしろし」という乾いた感情しか覚えない。



こんな心身の変化をとおして感じるのは、社会問題は誰かさんの問題ではなく超がつく「個人的な問題」なんじゃないかということ。そして抱えている生活の痛みによって、人それぞれ問題の優劣があって当然ということだ。



ここ数年は、あたかも正解があるかのような、声の大きな人の議論もどきをよく目にする。あれがなかなか解せない。なぜなら個人的なものと個人的なもの間にしか、私たちが生きたい社会は存在し得ないと思うから。そしてその間を探す唯一の処方箋は「論破」ではなく「対話」でしかないのだから。



・・・



そういえば最近は、いろんな身体や心のかたちにまつわるYoutubeチャンネルを見ている。ただ素敵だったり、可愛かったりで見てるけれど、このことが私にもたらしている影響は意外と大きいのかもしれない。

自分だけじゃない、社会の登場人物たちへの解像度を上げて生きてたい。

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