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言葉で関係を創ってみる


(注:例にも漏れず、長いのでだらだら読むか、太字だけ読んでいただければ幸いです…)

NHK制作『ネコメンタリー』という作品を観た。
この番組は、ネコとそのネコを飼う人物にフォーカスを当てたドキュメンタリー番組だ。

ネコや犬は通常「ペット」と呼ばれるものだ。しかし、この番組に登場する人たちは、ネコを「ペット」などとは呼ばない。基本的には「家族」とみなしている。

ここからわかることは、「家族」というのは、「血縁関係がある」という事実からのみで形成されるものではないということだ。
 実際に「家族」は「家族である」という言葉によって生み出されるものなのだ。 だからこそ、僕たちは血の繋がってないものであっても、かけがえのない「家族」になれるのだ。

言葉には不思議な力がある。言葉は関係を維持したり、形成したりする力がある。

僕らが普段、確実に存在すると考えている関係は「言葉」によって作られ、維持されるものが多いのだ。

言葉は、実際の現象や物を代理するもののように捉えられている。確かに、それも言葉の一つの側面だ。しかし、言葉の役割はそれだけではない。

 言語哲学者のJ・L・オースティンは、人々の日常的な会話を「行為」として捉えることで、人の話す言葉(文)の分類として以下の2つを提唱した。

(オースティンは、後に3つの発話行為に再構成するが、ここでは、それ以前の2つの分類がわかりやすいので、そちらを記載する。)

①事実確認的発話行為(コンスタティヴな発言)

 あるものについて単に述べること。正しいか正しくないか(真/偽)の判断ができる。

 例:これはペンです。
(単に、「これ」が「ペン」であることを述べているに過ぎず、また、それがペンか、ペン以外のものか判断できる)

②行為遂行的発話行為(パフォーマティヴな発言)

 何かについて述べると同時に、何らかの行為を行っており、それを口にすることで話し手と受け手、ならびにその周りの関係に影響をもたらすような記述(発言)。その記述(発言)の真/偽は判断できない。代わりにその状況で、その記述(発言)が適切か不適切かの判断を行う。 

 例:あなたと結婚したい。
(この言葉は、「自分が結婚したい」という「意思」があることを相手に示すとともに、「求婚」という行為を行なっている。この発言をしてしまえば、二人の関係は発言前と同じ関係には戻れないだろう。この際、真/偽の判断はできず、お互いの親密度や発言のシチュエーションなどで、その求婚が適切かどうか判断するだろう。)

 確かに、この2つの分類は境界線が曖昧なことがある。話し手としては、事実の確認をする発言をしただけなのに、相手(受け手)に何らかのメッセージとして受け取られ、パフォーマティヴな発言になるときもある。

(例:「今日は暑いなぁ」という事実確認的な発言を、相手が「窓を開けてほしい」というメッセージとして受け取り、窓を開ける場合など)

 しかし、大事なのは、パフォーマティヴな発言、つまり「言葉」が、あるものとあるものの関係を作り上げるという点だ。

 僕らが普段結んでいる関係は、あくまで言葉の上での関係なのだ。結婚関係、上下関係、友人関係…などは結局のところ、「言葉」によって結ばれる関係なのだ。

 もちろん、契約書などの保証も必要だろう。しかし、それらも突き詰めれば、ただ単に言葉による関係を補うものに過ぎず、そこに書かれているものも単なる言葉なのだ。

 さらに、考えれば、僕らが関係を維持できているのは、常にお互いの関係を維持するためのメッセージを送りあって、それを確認しているからなのだ。

「おはようございます」と挨拶するのも、相手と自分が何らかの関係にあることを確認・維持するために発言しているのだ。

 そして、それらの「言葉」によって決めた関係に基づいて、お互いに振舞うことで関係を作っていくのだ。つまり、僕らは、「言葉」による関係を「パフォーマンス」することで関係を維持する。
 「関係」なる絶対的なものなど存在しないのだ。

話をまとめると、僕らは「言葉」を発することによって、関係を作ったり、維持したり、更新したりしているのだ。

「言葉」による関係は、ある意味不安定なものに見えるかもしれない。しかし、逆に考えてみれば、僕らの関係は「言葉」で構築できるのだ。

話を冒頭に戻そう。猫や犬などのペットがなぜ「家族」なのか?それは、猫や犬を「家族」だと「言葉」で規定し、「家族」の一員として接することで、「家族」になるのだ。

絶対的な「家族」などは存在しない。「家族」は「家族」とみなし、それに基づいている限りでの「家族」なのだ。

だからこそ、僕らはどんなものとも「家族」になれる。血の繋がりはなくとも、お互いに「家族」と思い、振る舞い(パフォーマンス)ができれば、それはもう「かけがえのない家族」と言っていいのではないだろうか?

現在、各所で、関係の希薄化が叫ばれている。ネットに繋がっているのに孤独、という状況があちこちで生まれているのだ。
しかし、個人的には、むしろ、「関係のフラット化」が問題なのだ。

SNSのいいねは、どんな人からもらっても1つのいいねに過ぎない。僕らは、特別な人間ではなく、同じ形式の同じデータ量の何かとして処理されているに過ぎない。僕らは人との関係が画一化しているのだ。

だからこそ、関係を特別にする「言葉」が必要なのだ。「特別な関係のための魔法の言葉」が必要なのだ。

きっとそんな「言葉」があちらこちらで生み出されるようになれば、「関係のフラット化」から脱出し、1人の人間としてかけがえの無い関係を手に入れられるのかもしれない…

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