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憑依する、その前に…(1)

注:お久しぶりです。最近かなり忙しくて、ノートを書けませんでした。今回と次回は多少デリケートな内容を含みます。ご注意ください。ざっと内容を読むのであれば、太字を中心に読んでいただければ幸いです。

 その日、僕は友人数名と居酒屋にいた。学生ということもあり、格安居酒屋しか利用できず、あちこちで大きな声が飛び交う中でお酒を楽しんでいた。その時、僕たちの隣のテーブルで飲んでいた一人の若者が語気を強め、こういった。

「それを嫌に思う人もいるかもしれないじゃないか!」

どうやら、隣のテーブルでは、人の容姿の良し悪しが話題となっていたらしく、その人はそのことに腹を立てていたようだ。

「それを嫌に思う人もいるかもしれないじゃないか!」という類の言葉は、ここ最近あちこちで耳にする。

 ここ数年で物事の判断基準は変わりつつある。特に顕著なのは「快」か「不快」かという判断基準だ。「快・不快」は物事の判断基準であり、物事が「不快」であれば、何か問題があると判断する。また「快・不快」は、感情が僕らの行動や道徳の羅針盤になるという点でも重要だ。例えば、暴言やハラスメントを受けることは、僕らを「不快」にし、そこから遠ざかる行動を取らせたり、状況を改善するための行動、さらには、差別を許さない道徳的なルールづくりなどに導くだろう。

 (もちろん、人を差別するような発言やハラスメントは良いことではないし、その「不快さ」を表明することで改善を促すのは当然の行為だと思われる。ただし、「快・不快」による判断は必ずしも正しくないことが多いこともある。その話は別の機会にでも…)

 このような「快・不快」による判断が、最も先鋭的に現れるのはツイッターなどのSNS上だろう。ツイッターでは、あらゆる人々が、日夜、誰かの発言を「快・不快」の観点から判断する。不快だと感じる人が多い場合は、その発言者に対する非難轟々が浴びせられ、「炎上」にまで発展する。

 批判する際に用いられるロジックとしてよく見られるのが、「それを不快に思う人もいるかもしれないじゃないか!」という論理だ。つまり、「傷つけられるかもしれない他者」を想定し、その他者に「共感」することを根拠に他者を批判するのだ。

 現在は、「共感の時代」とも言われる。インスタグラムやツイッターなどでは「共感」を集める、いわゆる「バズる」ものが影響力を持つようになっている。また、一般的に「共感」は良いものだとされている。(『共感SNS』なんて著名な本もある!!)「人の立場に立って物事を考えなさい」などの教訓は、まさにその典型だろう。

しかし、本当にそうなのだろうか?「共感」には、落とし穴がないだろうか?今回の投稿と次回の投稿では、この点について私見ではあるが、少し考えていることを述べたい。

まず、「共感」とはなんだろうか?この点について、心理学者のポール・ブルーム2種類の共感をあげている。

一つは「情動的共感」である。「情動的共感」とは単純にいうと「他人が経験している(と思われる)ことを自分も経験してしまう」ことを指す。例えば、ある人が何か場違いな発言をして、恥ずかしがっているのを見て、自分も恥ずかしいような感じをしてしまう場合などが当てはまるだろう(「共感性羞恥」と呼ばれるもの)。

もう一つは「認知的共感」である。こちらは「相手がどのように感じているかを理解する」ことを指す。この際、注意すべきは必ずしも相手の経験を自分も経験する必要がないことだ。上記の例を再び用いるなら、場違いな発言をした人物に対して、自分は特に恥ずかしくないが、その人の仕草や挙動から、恥ずかしがっているのだろうと推測する場合などが当てはまるだろう。このような種類の共感は社会心理学などでは「社会的認知」と呼ばれるものに等しい。

僕らは普段、この二つの「共感」を利用しながら生活しているが、僕らが一般的に「共感」と呼んでいるのは「情動的共感」だろう。つまり、誰かの経験を自分の経験のように感じるタイプの共感だ。
ここで僕が問題としてあげたいのは、「現在、この『情動的共感』が人々の行動を決める大きなガイドラインになってしまっているのではないだろうか?」ということだ。

SNSでは、誰かが面白い体験をしたという旨のツイートをしたら、大量の「情動的共感」を呼び、ファボを集める。また、誰かが何かしらの不満をツイートしたら、その人の不満を自分も感じ、何らかのコメントを行う…このような風景はもはや常態化していると言えるだろう。

さらに、この「情動的共感」は、即時的、かつ、いやが応にも起きてしまうものだ。僕らは気がついたらすでに誰かの痛みを感じているし、誰かの喜びを感じている。SNS上では、ある人物が特定の人を傷つけるような発言をした瞬間に、傷つけられた人に同一化し、批判を浴びせるだろうし、逆に自分の好きな誰かが賞賛されれば、自分も嬉しくなってしまうものだろう。

では、なぜ、今の時代は「情動的共感」が先行しているのか?それを知るためには、人間の認識システムを知る必要があるだろう。

認知科学・心理学の分野では、人間が物事を判断する際の認知システムは大きく分けて2種類あるとされる。

1つは「システマティック」だ。これは、多くの判断材料を集めて、検討することで物事を判断することを指す。多くの判断材料を集めて、検討するので判断のスピードは比較的遅く、考えるのには負荷がかかる。しかし、じっくり検討するので、大きな間違いというのは起こりにくい。

もう1つは「ヒューリスティック」というものだ。これは、過去の経験やカテゴリー、感情など利用(イメージ)しやすいものに基づいて、簡便に判断するシステムだ。また、簡便であるがゆえに、判断スピードもはやい。例えば、血液型での性格診断(本当は何の根拠もないが…)で人を判断する場合などが「ヒューリスティック」の例として当てはまる。血液型を聞いたときに、O型と言われれば、その人の細かい部分を捨象して、「あー、おおざっぱな人だよなぁ」というように簡単に判断してしまう。

人間は、普段、主にこの2つの認知システムを利用して物事を判断している。しかし、なぜ、人間にはこの2つのシステムが必要なのか?それは、人間の「認知資源」に限界があるからだ。「認知資源」とは、簡単にいうと、物事を考えるエネルギーのことだ。人間は、すべてのものをじっくりと考えることができないのだ(すべてのことをじっくり考えていたのであれば、全く今のペースで生活できないだろう)。だからこそ、人は、大まかに(「ヒューリスティック」に)判断する必要がある(人は考えるエネルギーを節約するものなのだ)。

ここで、あることに気がつく。それは「情動的共感」とは「ヒューリスティック」になりうることだ。
 例えば、女性に対する差別的な内容とも受け取れる発言をした人物がいるとする。そして、他の人は、その発言で傷つけられた人がいるとわかると、その人に「情動的に共感」し、発言者を批判する。さらに、その発言者は「元々、女性蔑視的な性格」だったのだという人格的な判断にまで至る。しかし、発言者のその発言は、特定の文脈で仕方なくされたものかもしれないし、普段は女性の社会進出について肯定的だったりするかもしれないが、このような可能性が考慮されることはあまりない。つまり、「情動的共感」という観点から物事を単純に判断しうるのだ。

(注:僕はここで、差別的な発言を支持しているわけではない。差別的な発言と受け取られてしまうような発言はもちろんすべきではないが、人格が複雑な要素から構成されていることを考慮すると、人格の判断は本来では容易なはずがないのに、容易に判断される場合があるということを提示する意図がある。)

また、ツイッターなどのSNSの性質にも目を配る必要があるだろう。SNSは、大量の情報、リアルタイム性、発言の容易性をもたらした。誰でもたくさんの情報をリアルタイムで得ることができるし、誰でもすぐに発言することができる。しかし、僕らは大量の情報を集めても、それらをいちいち丁寧に判断することができない。なぜなら、「認知資源」に限界があるからだ。だからと言って、すぐに判断しなければ、常時流れるタイムラインにおいていかれてしまう。だからこそ、「ヒューリスティック」が氾濫するのだ。そして、発言が容易なため、じっくり考えて発言するよりも、脊髄反射的にすぐに発言してしまうのだ。

このことを踏まえると、なぜSNSで「情動的共感」が溢れかえっているのか理解することができる。つまり、「情動的共感」=「ヒューリスティック」が判断の指針となり、ツイッターのシステムも相まって、即座に反応してしまうのだ。
 ここで大切なことは、もともと僕らが本能的に「ヒューリスティック」を用いて判断を行い、行動してしまうのではなく、「SNS」というインフラが、僕らの日常的な認識のあり方すらも変えてしまった部分があるということを忘れないことだ(「メディアはメッセージである」!)。つまり、僕らが「情動的共感」に基づいて行動してしまうのは、「SNS時代の要請」である部分が大きい。よって、自己責任や遺伝、本人の元々の傾向という点に単純に帰属させられるものではない。

次回の投稿では、「情動的共感」の落とし穴と、「それを嫌に思う人もいるかもしれないじゃないか!」のロジックの危険性、そして、この状況の中でどうするべきか、の私見について述べていきたい。

〈まとめ〉
・現在は「共感の時代」になりつつある。
・「共感」には「情動的共感」と「認知的共感」の2種類がある。
・人間が物事を判断する際には「システマティック」と「ヒューリスティック」の2つのルートがある。
・人間の考えるエネルギー(認知資源)には限界があるので、すべてのことを深く考えることができない。
・ツイッターなどのSNSは、大量の情報、リアルタイム性、発言の容易性をもたらしたが、一方で「ヒューリスティック」の氾濫を引き起こした。

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