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北の白い雲 ー癌で死んだ父ー⑮

幼い頃、肉親の死を想って眠れないことがあっただろう。  漠然とした死への不安は人を憶病な日々へ追いつめてくる。  しかし、どうしようもない事実だ。  ありあまる幸福の絶頂にあっても、困窮のちまたにあっても、それは確実にやってくる。  だれも逃げきれたものはいないという。  闇雲やみくもにおそわれていた幼い頃の日々から、いま現実を見つめるときがきている。  死を冷徹にみつめてみよう。  必ず、有意義に生きろと声がきこえてくるだろう。  生きているものの責任はひとつしかない。  悔いなく生きることだ。

<ミニコミ誌」わからん」編集長> 


昭和56年(1981年)4月1日午後2時、市民病院からから病室が空いたと連絡が入る。6日の午後10時までに外科受付に来るようにとのことだった。母は泣いて御礼を言った。それまで父は市民病院からの連絡を待ちわび、私が家で電話をかけることさえ許さないほどだった。

父は昨年の夏、市民病院に入院しなかったことを悔いていた。体力の衰えの不安、手術をすることへの恐怖感、父の心は千々に乱れていく。

4月6日、父と連れ立って市民病院へ向う。道すがら、桜の花が咲いていてきれいだった。父はずっと前を向いたまま、無表情で歩いていく。

外科受付から病棟へ、そして病室へと案内される。看護師が父の病歴、家族歴を聞きに来る。「お父様が癌で亡くなられたのですね」と念をおした。

夕方、外科部長の回診後、治療方針が決まった。明日から、コバルト照射が20回の予定で行なわれることになった。

今朝家を出る時、父は母と祖母に「短い間だったけれど、世話になったね。三人で仲良く暮らしてくれ。写真は部屋にあるから」と言い残した。私のことは自分の道を歩んでいくから心配ないと言ったらしい。

4月7日、父の食事は流動食となった。メニューは、リンゴジュース、スープ、おもゆ、牛乳。あの牛乳嫌いの父が牛乳を飲んだ。

午前11時半、心電図検査。この時私は父を待ちながら、父に生きてほしいと思った。そして、私もさらに強く生きなくてはいけない、家族のためにと思った。

午後4時、コバルト照射。照射室へ行くのに看護師が寝台車を貸そうかと言う。歩けると言うと驚く。そのことに今度は私たちが驚いた。




記事のバックナンバーは、こちらのマガジンでまとめています。

https://note.com/monica50/m/m806a138c9288

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