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東京の空を見て、ずっと息を止めていた。

心が幸せを求めると弱くなる気がする。安定を求めると弱くなる。弱くなるというのは、柔らかい部分がむき出しになっていて何もかもを吸収してしまうことを指す。そんな状態で生きるのはほとんど拷問に近い。一体どうしたらいいのかわからなくなる。そんな時の自分はひたすらに言葉や映像が頭の中を動き回る。頭の中で考えが暴れる。そして過敏になりすぎるために、自ら殻を作り、閉じこもり、人にも自分にも厳しくなる。そして結果的に誰かを傷つけてしまう。それは結局は自分をも傷つけることにつながる。断ち切れない負の連鎖を作り出してしまえばたちまちに引きずり込まれ、行き着く先は奈落の底だ。

ここ数日間、いや、数ヶ月間、どうしたことか自分の幸せとは何かについてずっと考え続けている。私は岡山県で生まれ、東京で育った。小さい頃は山で、少し大きくなってからはずっとビルの山で暮らしている。どちらがいいかと言われれば、どちらにも良さがあるし、その逆もあると思っている。しかしながら最近は少し、自分の中でPTSDや双極性障害の症状が強くなってきていた。こう書くと少し驚かせてしまうかもしれないが、酷い日は本当に頭の中が『どうしたら楽に死ねるか』一色になる。結局たどり着くところは縊死になるわけだがそれ相応のことをするわけでもなく、ただ台所から包丁を持ち出し、机の上に置く。おもむろに置いたその包丁を眺め、やがて少し手首のあたりに当てる。ポンポンとリズムを刻みながら少しずつ刃を動脈に当てていく。しばらくそれを繰り返した後は、刃先で自分の腕の内側の皮膚を引っ掻いていく。白い皮膚に赤い筋が浮かび上がり、その筋で絵を描く。そのまま何も感じないことを確かめ、また刃先を手首に戻す。そうしてしばらく上下左右に動かした後、ハッとする瞬間が訪れる。『手首を怪我したら、空手の突きができなくなる。やめよう。』こうして振り返るとなかなかにキているなと思うわけだが、要するに死ぬ気など一切ないのである。ただ、生きているのか死んでるのかわからないような感覚のまま、その寝ぼけた状態から目醒めるためにこういった行為を繰り返す。最近は包丁だが、前は安全ピンやハサミでもよくやっていた。時には、親友に電話をすることもあった。

『死にたい』という思いが頭や心を占め始めると衝動的にそこへ行ってしまう自分がいる。妖精に誘われて深い深い森へどんどん行ってしまうように、怖いと感じる時がある。本意ではないのに、気づいたらこの世から魂も体もなくなっているのではないかと思う瞬間がある。家出をしていた時、よく眠りながら『マンションから落下した自分』の映像を見ていた。考えようと思ってはいないのに頭の中に勝手に映像として流れてくるのだ。実際に飛び降り自殺した人を見たことはないのであくまでドラマなどの映像で再生されているのだとは思うのだが、それでも例えば血だまりや脳漿が飛び散っている画があまりにもリアルで全身の血液が凍りつくような感覚をよく覚えたものだった。神経がびりびりする。そんなことを思っていたら実際に知恵熱が何日もでて、同居人を困らせたこともある。昔からずっとそうやって浮遊して生きてきたので、まあ、こんなことを思ったり行動にしたりしても『今さら』と思う自分もいる。なのでそこまで焦ってはいない。それでも『やばいな』と思う自分もいる。矛盾が矛盾を呼び、自分をいっぱいに満たしていく。人間はそもそも矛盾だらけの生き物なのだが、私はこの感覚や矛盾の匂いが自分を満たしているときは死神がやってきたなと思うようにしている。自分から仮に湧き出てきた思いやものだとしても、死神という概念や他人事にしてしまえば、今日も明日も1日1秒でも少し生き延びることができるような気がしている。弱々しい蚊の鳴くような声でも『お前のせいだ』と言えたなら、それはある意味幸福に近しいのかもしれないとさえ思うのだ。それが簡単に言えば、私の毎日と大切な1日だ。

親友が見るに見かねて、『私とBBA(ババア)になるまで生きないとダメだからね。ミーさん、わかってんだろうね。』と言ってきた。なんだこいつ、なんでそんなこと私に言うのだ、と一瞬思ったが、それでもありがたいことだなと思った。人付き合いが上手い方ではない。友達も多いが、浅い付き合いも多い。オタクの人は一瞬で仲良くなれるし未来永劫友達だ、みたいになりやすいが、そうでない人も中にはいる。そんな人生の中で、こうやって『長生きしろ』だとか『一緒に歳をとって生きていきたい』と言ってくれる人がいることは、私の人生の中で唯一誇っていいことなのかもしれないと思う。失敗が多い、何一つ満足にできないことが多い自分でも、本当に大切なものはすでにもうあるのだと思えるのはとても嬉しいことだ。

いつ死んでもいい、と思っていた人生で、『長生きする』と言う新しい目標が少しだけインプットされたので、どうにかしてできるだけあいつ(親友)を悲しませないように長く生きようと思った。結果、あまり東京にいない方がいいのではと思い始めている。それもあってしきりに、『移住する』と言う言葉を繰り返している。この一連のやりとりがあってから大分県に行く機会があったのだが、とても楽しくて幸せだった。一人で行ったのだが、なんと言えばいいのだろう。兎にも角にもお山がたくさんあったこと、そしてそれらが全て火山であったこと、熱のエネルギーを感じたこと、そしてやはり空があると言うのはとてもいいことだなと思った。何度も言ってしまうが、地方に行くと『東京には空がない』と言った、智恵子抄の智恵子さんを思い出してしまう。彼女は東京には空がないと嘆き、精神に異常をきたし亡くなってしまう。彼女の言葉はすごくわかる気がする。確かに、東京には空がない。東京では自分自身で空を区切ることが必要だ。勝手に陽が暮れることもなければ、昼と夜、夜と夜中、夜中と明け方の切れ目がわかりにくい。自分自身で区切っていくことが大切になっているのかもしれない。ネオンの光は好きだ。いつも、自分はあの光に吸い寄せられる虫のようだと思う瞬間がある。しかしそれと同時に本当に何かを吸い取られているのかもしれないと思うこともある。便利さと引き換えに、命の養分を吸い取られているような気もする。東京という街は、緩やかに自害するための場所であるのかもしれない。そう思うと、ここはもはや自分にとって暮らす場所ではないのかもしれない。

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