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「働き方改革と過労死」②市民活動としての労働運動と世界の動き



労働者派遣法が成立したのは、1985年である。

これは1947年職業安定法制定に伴って禁止された「労働者供給業」や制限を受けた「請け負業」が新装復活したものだ。
戦前は労働者の保護規制が不十分であったため、悪質な労働供給者により、奴隷的な人身売買、賃金の中間搾取、労働争議への暴力団の介入などが行われていた。敗戦後、この前近代的な慣行をなくすために法規制がかかったのである。


最初は16業種に絞られた派遣業種は、1996年の派遣法改正で専門26業種に拡大。2003年の改正では製造現場への派遣が認められ、2008年リーマンショック後の大量派遣切り、年越し派遣村、シングルマザーの貧困や、中間層の没落と貧困層の膨張へとつながってゆく。

2017年の2月22日に安倍総理が、「働き方改革実現会議」で残業上限規制に関する決意を述べた後、当時の神津連合会長と、榊原経団連会長は協議に入った。
最終協議の直前、私たち4人の遺族は全国の過労死遺族や、労働問題当事者の代表として、連合本部に行き、神津前会長の前でなぜこの法案に反対するかを含めた、現状のプレゼンを切々と行った。神津里季生前会長は、痛ましげな表情で一通り話を聞いた後で、こう言った。

「お話は分かりました。わたしは総理に、実現会議の席で、この玉を磨いてお返しする、というお約束をした。月100時間という縛りにご不満はあるでしょう。しかしこれは、罰則規定付きで残業時間の上限規制をかけるという歴史的な法案です。どうかご理解をいただきたい」

連合のビルの向かいにはマスコミが大挙していた。知り合いの記者さんに見つからないように、裏口から外に出た。「時間外労働の上限規制等に関する労使合意」を榊原氏と神津氏が取り纏めた、という報道が流れたのはそれから間もない。3月13日のことだった・


高度プロフェッショナル制度は激しい反対によって、2017年9月審議未了廃案となったが、2018年4月に提出された働き方改革関連法案に再度盛り込まれ、成立した。2019年4月より施行されている。

思うに遺族との対話は、単に形式的なものだったのだろう。最初から結論は決まっていたのだ。でも当時、毎日のように若い人、働く人の命が失われる現場にいた私には、切実な問題だった。もう誰にも死んでほしくなかったし、どんなことをしても、止めたかった。だから身を切るような思いで、泣きながら語ったのだ。

当時の連合は、東大&神戸製鋼出身の神津前会長はじめ、主要メンバーは東電など、大手企業出身者ばかりだった。属している組合も御用組合の大手だ。帰ってから執行部メンバーの所属を確認した私は、この人たちは労働者の代表じゃないんだ。と思った。きっとみんな余暇には軽井沢でテニスをするような人たちに違いない。だから、営業の合間にコンビニでカップラーメンをすする顔色の悪い営業マンや、足首を捻挫するほど駆けずり回って働いているのに、雇用調整のために簡単に切り捨てられてゆく派遣社員や、厳しい状況下で押しつぶされるように死んでゆく人々の悲哀が、想像できないんだ。と。

たぶん私は愚かで、ナイーブ過ぎたのだろう。時代や政治の流れを個人でどうこうしようなんて、所詮無理だったのだ。

神津氏があまりに感じのいい人だったばかりに、わたしの落胆は深かった。彼が悪役のような人だったらまだ納得できた気がした。経団連の榊原会長や、協議会で出会う使用者側の人々に私が腹を立てることはなかった。経営者側が利益を追求するのは当然だろう。でも、同じ数いるはずの労働者側の力があまりに弱い。

神津氏との面談で、それまでわたしが日々の活動の中で薄々感じていた矛盾が、一気に表面化した。連合に限らず、それまでも労働組合の人の言動にがっかりすることが多かった。遺族会の代表として訪れた官公庁の組合では、いかに自分達の職場でひどいことが起きているかを切々と訴えられ「がんばって」と激励された。大学のハラスメント窓口では「あなたのような人が社会を変えるんだと思います」と相談員の人に断言された。残業代ゼロ法案反対の現場では、どこかの組合の人が「遺族の人は前に出て」とマスコミの前に押し出された。なにかが明らかにおかしかった。私は遺族だが、自分は自営である。被災者である家族はすでに死んでいて何をしても帰ってこない。労働条件をより良いものにしていくのは、そこで働く人自身がすることなのではないか。自分達の問題なのに、働く人の姿があまりに少ないのが抜けない棘のように心に引っかかっていた。


連合は、そもそも正社員中心の組織である。御用組合と揶揄されることも多い。賃上げには熱心だが、非正規雇用や、派遣労働者の組織率は高くなく、当然雇止めなどの相談に乗ってもらったという人に会うことも少ない。


「中心と周辺」というテーマで考えた時、その対話の場で、神津元会長は、権力を持たない働く人たち(労働組合)の代表でありながら、労働問題の「周辺」ではなく、わたしには「中心」ー権力を持った特権的な存在にしか見えなかった。被災者は「周辺」ー無視され追いやられ、犠牲を払う方ーの側だろう。しかし、我が家もそうだったが、誰もが働くことに疲れ、力尽きたその後になるまで、過労死過労自死を自分たちの問題であると考えることはなかったのだ。

2012年に遺族になって取り組んだ、過労死防止法の制定活動に関する応援はすさまじいものがあった。自分が死にそうだからといって、山のように署名を集めて送ってくれたホテルマンがいた。親が、子供が心配だからと、みんなが署名を集めるのを手伝ってくれた。あっという間に55万の署名が集まった。

しかし働き方改革関連法案には、まるで逆の見方が浸透していた。政府のプロパガンダが成功していて、みんなそれをいいものだと思っているようだった。

裁判の応援では、正しさとは時代によって変わってくるものであり、絶対的な基準ではないということを、目の前の人々の痛みとして感じた。
「権利」が、自然に与えられるものではなく、大勢の血と汗によって勝ち取られてきたものであることを思い知らされた。


続く〜


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