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「働き方改革と過労死」①市民活動としての労働運動と世界の動き

労働問題の中心と周辺   

               前川珠子

家族の死をきっかけに飛び込んだ労働問題の世界で見たのは、大勢の、異常ともいえる状況のなかで虐げられた人々だった。

会社に見捨てられたメーカー勤務の営業の人は、ご主人を心配した奥様ともども、モンスター化したクライアントの前にご夫婦で引きずりだされ、倉庫の床で土下座を強要され、ある人は、研究者生命をかけて取り組んだ成果のすべてを上司に奪われ、研究室から追い出された。

労働力として便利に使われパワハラで潰されて、命を絶った大学院生。新卒で就職、上京後、周りの社員と連絡先交換を禁止され、隔離された形で働かされ、逃げ出すと、アパートの入居費用の返還を求められたアパレルの女の子。国際協力がやりたくてワタミに就職したんですけど、あまりにブラックで気が付いたら店の床に朝まで倒れてたんです。このままだと死ぬと思って辞めました。と教えてくれた女の子。ストレスから鬱になり、学校に通えなくなった。好きで憧れてやっとなった仕事なのにと泣く高校の教師。

銀行の人もいたし、マスコミの人もいた。大きい会社の人も、中小企業の人もいた。我が家のケースだけでなく、誰でもエアポケットに落ちてしまう瞬間がある。特に若者はもろく、過酷な環境に移動後、ほぼ3か月で命を絶つケースが多かった。ただ、この三か月が過ぎる前に介入できた場合の予後はとてもよく、まるで何事もなかったかのように普通に働きだす。

必ずしも長時間労働だけの問題ではない。労働時間が短くても、強い精神的負荷を受けると人はもろい。長時間労働がそこに加わると、指数関数的に危険は増大する。

一緒に活動していた過労死弁護団の川人博弁護士が著書「過労自殺」の中で、過労死過労自殺していく人々を女工哀史に比較していた。極端な比喩のようだが、実は珍しくもない残業月100~200時間という世界は、1903年「職工事情」報告に出てくる、休みもなく、公表でも日に平均11~12時間(実態は12時間を超え15~18時間に達することもあったと言われる)女工哀史の女工達にも負けるとも劣らない。(残業200時間に月160時間を加え、単純に31で労働時間を割ると、一日平均労働時間は11時間になる)ただ1900年初頭は一割ほど混ざっていた、14歳未満、時に10歳以下の子供のような若年労働者が、今はいないだけの違いだ。人類学者マーシャル・サーリンズによると狩猟採集民の労働時間は一日当たり4時間程度(東洋経済オンライン2021.10.30)。また、「中世の農奴ですら、年平均週40時間しか働いていなかった」と人類学者デヴィッド・グレーバーは著書「ブルシット・ジョブ」で書いている事を想うと、封建時代の農奴や、狩猟採集時代の人々の方がよほど人間らしい生活をしていると言えるだろう。

1987年に43才で急性心筋梗塞で過労死した大手広告代理店「創芸」勤務の八代俊亜は生前このようなメモを残している。
「現代の無数のサラリーマンたちはあらゆる意味で奴隷的である。金に買われている。時間で縛られている。(中略)ほとんどわずかな金しかもらえない。それも欲望すらも広告にコントロールされている。肉体労働の奴隷たちはそれでも家族と食事する時間が持てたはずなのに」(八木光江著 「さよならも言わないで~過労死したクリエーターの妻の記録」)

労働環境や条件に関する問題は、労使の合意によって、解決していく事が建前になっている。そのため、労働に関する法律の規制はゆるく、運用も恣意的で、規定があっても守られていないことが多い。特に近年のように労働組合の力が弱くなり、正社員が減少し非正規雇用、パート、限定正社員、など雇用形態が多様化した現在では、力の弱い被雇用者側に一方的な負担が負わされることが多い。



労働問題の中心と周辺、というテーマで考えた時、どうしようもなく浮かび上がる記憶がある。

2017年3月。当時の安倍政権が進めていた「働き方改革」の実行計画が、まさに纏められようとしていた時のことである。
重要な法案は、まずは、有識者会議において検討され、提言が策定され、それに沿って法制局で必要な法律が作られ、国会で形ばかりの審議が行われた後、制定、施行される。

その最初の段階の論議が「働き方改革実現会議」で行われていた。
ほとんどが政府よりの実現会議メンバーの中、
唯一の労働者側の代表が、連合の神津里季生前会長だった。

連合―日本労働組合総連合会ーは日本最大の労働組合である。現在の構成組合員は約700万人。日教組自治労など官公庁系、自動車総連、電機連合などさまざまな労働組合をまとめている。1950年に日本労働組合総評議会として設立。日本における労働組合のナショナルセンターとして機能し、当時は多数の社会党系議員を議会に送り込み、年5000件にも及ぶストライキを組織してきた。

70年代、オイルショック不況と、1985年プラザ合意による規制緩和により労働組合は急速に力を失ってゆく。1975年の5000件をピークにストライキは激減。その流れを受けて、1989年、総評は「連合」へ「発展的解消」を遂げた。

2017年3月、当時論議されていた「働き方改革関連法案」に、私たち過労死遺族は激しく反対していた。

初めて労働基準法に罰則規定付きの残業規制を入れる事を謳っているこの法律の「規制上限」が、厚労省が認める過労死ライン(これ以上の残業があれば過労死と認めるという基準)とされる月80時間を超え、月100時間だったこと。その結果一日8時間と定められているILO(国際労働機関)で定められた労働基準の大原則「一日8時間労働」をなし崩しにする危険性を孕んでいたこと。
残業0法案の悪名高い高度プロフェッショナル制の創設を含んでいること。

年収1075万以上とされたこの制度の対象者は、経団連によって最初に提言された15年前から、年収400万程度の一般労働者への範囲の拡大が視野に入れられていた。
(故森岡孝二関西大学教授著「雇用身分社会」第4章147p)

このため、高度プロフェッショナル制度も、徐々に改正され、運用範囲を拡大していった「派遣法」と同じ道をたどる事が予想された。

続くー


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