偏見に基づいた「うっせぇわ」考察

「うっせぇわ」という楽曲がYouTubeに公開されてから早4ヶ月が経った。Adoの高い歌唱力とユニークな声色、ボカロ世代に刺さる曲調、耳に残るフレーズなどの要因からSNSを中心に瞬く間に大バズりをし、特に歌詞の内容については未だに論争が続いており、まさに令和的な大ヒットをしている。さて、その歌詞の内容についてだが、若い世代を中心に共感を呼んでいる一方で全体を支配する「俺TUEEEE」感に嫌悪を示す声は世代を問わず見受けられるように思える。それに対する反論として、「昔だって尾崎豊が流行ったじゃないか」という声もある。しかし、この歌は本当に「俺TUEEEE」だけの歌なのだろうか。単に遅れてきた反抗期を歌っただけの幼稚な歌なのだろうか。そして、「うっせぇわ」は令和の尾崎豊なのだろうか。きっともう同じようなことを沢山の人が言っているだろうが、今回はそんな「うっせぇわ」の歌詞について、私なりの偏見に塗れた意見を述べていきたい。

まず、この歌詞を単に「俺TUEEEE」だけの歌だと思うにはあまりにも引っかかる一節がある。それは終盤に登場する「アタシも大概だけど」というフレーズである。強い語気で身の回りの環境に対する不満をぶちまけ、己の優秀さを鼻にかけていたはずの主人公の女性(一人称が「私」もしくは「アタシ」であり歌っているAdoも女性であることから、便宜上女性であると仮定する)が最後の最後になって譲歩を見せるのだ。私はたった1行のこのフレーズに途轍もない悲哀を感じる。その悲哀の原因を探るため、歌詞の冒頭へと戻ってみよう。

冒頭の歌詞から彼女は「ちっちゃな頃から優等生」として生きてきて、そのまま就職までやり抜いたことが伺える。きっと先生や両親など周りの大人の言うことに従順でいたために、「何か足りない」という感情を抱きながらも「ナイフのような思考回路」を持つこともできなかったのだろう。そんな「優等生」だったはずの彼女が、「社会人じゃ当然のルール」を前にした途端に変貌するのだ。おそらく「優等生」だった彼女はこれまでの学生生活における「当然のルール」は問題無くこなしてきたのだろう。それが本当に何の問題も無かったか、はたまた何かに耐えながらであったかは別として、少なくとも自らを「優等生」だと思える程度には様々な障壁をクリアできていたに違いない。しかし、学生時代とは異質な社会人のルール及びマナーに、彼女はこれまで通り適応することができなかったのではないだろうか。特に2番で歌われる「不文律最低限のマナー」は、上下関係の厳しい環境に身を置いてこなかった人間がいきなり何も言われずにこなすのは至難の業であろう。私自身がそうだが、現代の学生生活ではそのような環境をスルーしようと思えばいくらでもスルーできるし、そのような文化に対する批判の声もSNS等で見かけるようになった。彼女が「現代の代弁者」を名乗っているのも頷ける。学生時代まで「優等生」だった彼女は言われたことをこなす能力は高かったはずだ。そんな中いきなり言われなくてもやらなくてはいけないことが目の前に立ち塞がった状態であると考える。約20年もの間、与えられた課題を着々とこなし築き上げてきた自信が崩れ落ちたとき、「優等生」だった彼女はそれを受け入れられなかったのかもしれない。そこで飛び出したのが「うっせぇわ」という何の反論にも何の解決にもならない叫びなのだ。ここに来て彼女はストレスの原因となっているであろう人間を罵倒し、自らが優秀であるということを自分に言い聞かせることでしか精神を保てなくなっていたのだろう。

ここまでがおそらく多くの人の批判の対象となっているであろう部分についての考察だ。なるほど、確かに不文律のルールやマナーを守って生活している人や学生時代から与えられた課題だけでなく自ら課題を見つけて行動を起こしていた人からすれば、この歌詞の内容は甘えであり自業自得であり幼稚であるかもしれない。だが、これを単なる幼稚な反抗であると捉えるのはもう少し待ってほしい。ここで思い出してほしいのが「アタシも大概だけど」の一節だ。なぜなりふり構わず不満をぶちまけていた彼女は、ここに来て譲歩したのだろうか。それは彼女がこの期に及んで「優等生」だったからではないかと私は考える。彼女が心の底から「誰かのせい」だとか「私が俗に言う天才」だとか思えるほどの図太さを持っていたなら、こんなことすら思わないはずだ。ここに、彼女自身の自己嫌悪の情が表れている。結局彼女は「優等生」であることがやめられないのだ。きっと環境に対する不満を持ちながらも、周りが難なくクリアできていることができない自分やそんな不満を持ってしまう自分を、「優等生」の目線から責めてしまうのだろう。そんなに辛い環境なら逃げ出せばいいと言う人もいるかもしれない。だが、20年そこらとは言えども彼女が人生をかけて築き上げてきた「優等生」及び「模範人間」としての地位は軽々しく捨てられるものではないし、ここに至るまでの過程でそうでない生き方に対する固定観念や偏見も沢山刷り込まれたり自ら積み重ねたりしてきたのだろう。「アタシも大概だけど」の一節について思いを馳せてから歌詞を読み直すと、この強がった歌詞ですらその背景に哀しき自己不全感があると思えてならないのだ。

ここまで「うっせぇわ」のみについて述べてきたが、ここでよく引き合いに出される尾崎豊の楽曲との比較をしてみたい。確かに20代前半でも知っている「15の夜」や「卒業」などの楽曲は「うっせぇわ」同様その歌詞において社会への反抗心が歌われている。そして、尾崎自身も経歴上はしばらく「優等生」であらなければならなかったことが伺える。しかし、両者には決定的な違いがある。SNSでも比較として出されがちな「15の夜」や「卒業」は歌詞中に「学校」や「校舎」という単語が登場するように、学生目線からの反抗心を歌っている。実際、当時の学生たちの共感を呼び、社会現象を巻き起こした。感化された者の一部はそれを実際の行動に移したとも聞く。だが、そのようにして自由を勝ち取る行為は、学生だから出来たことなのではないだろうか。対する「うっせぇわ」は社会人目線の歌である。学生と社会人ではその自由度は後者の方が高いように思えるし、現に先述の尾崎の2つの楽曲は歌詞中でも被支配からの脱却自由の獲得を求めている。しかし、自由には責任が伴う。「うっせぇわ」の主人公はおそらく誰かに言われるがままに「正しい道」を歩んできたものの、社会人になったことでその選択は他の人間が自ら望んで下した選択と一緒くたにされ、責任が伴うものとなったのだろう。責任が発生した以上、「模範人間」たる彼女は現状からの脱却すら選択できなくなっているのではないだろうか。その証に、「15の夜」や「卒業」の歌詞ではその善悪は別として何かしらのアクションが起こされている一方で、「うっせぇわ」では特に現状を打破するような行動は起こされてはいないように思える。「言葉の銃口をその頭に突きつけて撃てば」という表現はあるものの、彼女は本当にその引き金を引くことができたのだろうか。ここの解釈は人それぞれだと思うが、「撃った」ではなく「撃てば」である以上、彼女が対象となる人物に対して不平不満を述べることができたと確定させることはできないと思う。ましてや「優等生」の自負がある人間だ。これは勝手な想像だが、対象となる人物に直接不満をぶつけることができていたなら、そもそもこの歌詞のようにストレスを溜め込むことも避けられたのではないかと思ってしまう。どちらが良い悪いではないが、尾崎の2曲には自由を志向するポジティブさのようなものがある一方で(何度も言うが、その行動の善悪は別として)、「うっせぇわ」には行動すら起こせない諦念を感じる。彼女にとってはもう「どうだっていい」のだ。その絶望感にも近い感情が滲み出たこの歌に、私は悲哀を感じざるを得ないのだ。もしも彼女が実在の人物だとしたら、この後どのような人生を送るのだろう。社会人のルールや不文律のマナーに対する苦手意識を克服するのだろうか。それとも心身の限界を感じて退職や転職をするのだろうか。考え得る最悪の結末が脳内にちらついてしまうのは私の考え過ぎだろうか。

最後に、なぜ私がこのような偏見まみれの考察をしたかについて述べる。それは私自身が「うっせぇわ」にすらなれなかった人間だからだ。「うっせぇわ」の主人公は見事に就職活動をやり遂げ、社会に出ることには成功している。しかし私は、大学生のうちにこの歌から伺えるような自己不全感に耐えられなくなり、「優等生」ではなくなってしまった。そんな私から見てもこの歌詞の内容には幼稚な部分があることは認める。しかし、タイミングによっては私もこうなっていたかもしれないと思ってしまう以上、許しを請いたくなってしまったのだ。甘えた考えかもしれないが、自分も含めこの世の全ての「大概」な人たちが、各々「うっせぇわ」と思わずに済むような道に出会えることを願っている。

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