忘れ花~最終章~後編

必要な者には険しき道が立ちはだかり、
欲していない者には身近な存在。

それが「忘れ花」の"生態"だ、と植物学者の兄が真剣に語り出す。
学者というものは、科学に基づく理論的な見解で物を言うものだと思うが、
兄が話すことはまるでおとぎ話だ。

「これまで母と何度も会い、話をしたが、それは全て母が生きていた頃の昔の記憶の再現のようなもので、忘れ花は幻想を見せる作用があると思ったんだ。
ただ、それほど自分が思い出せる記憶も多くない。でも母さんが話を振ってくれると、ああ、そんなこともあったっけ・・・とその時の会話や状況を思い出すんだ。
それでもいい、そう思う程に俺は母さん会いたかったんだなぁ・・・」

兄は少し苦い顔をして笑った。

「だけど、本当は母さんに言いたいことがあった。それを気づかないふりをして、優しい思い出にずっと浸っていたんだ。ずっとそうしていたかった」

―兄さん・・・

「母さんがくれた手紙に、花のことが書いてあってね。凄く気になっていたんだ」

「花?」

「ああ、その花のことを今度・・・帰った時に母さんに聞こうと思っていた、だけど聞けなかった」

兄は何かを飲み込むように言葉を止めた。

「その花の話、したのか、母さんと」

短い沈黙の中、私は兄にそう切り出した。
「ああ・・・したよ」

すると兄はゆっくり、また話を続けた。

「母さんと俺は同じ花を見ていたんだ。そう、手紙に書いてあった花は忘れ花のことだったんだ。
・・・なんとなくそんな気がしていた。
だけどこの花の実態が段々とわかってきた中で、この花の話を母さんにすることを俺は避けていたんだ、無意識に。

その話をすれば、きっと母さんとはもう会えなくなる気がしたから」

兄は大きく息を吸った。
「母さんが、花の話を始めたんだ。
それは、いつものように引き出す記憶がない会話」

「母さんは・・・なんて?」

「”あんたに聞けば名前がわかると思って!”って・・・拍子抜けるよ」
そう言って兄は笑う。

「俺が手紙の返事も返さず、帰省もしなかったこと、ずっと謝りたかった筈なのに、母さんがあまりに雑談ばかりで、あっけにとられ聞いていたら、
”なんにも気にしなくていいのよ、大丈夫、大丈夫”って笑って言うんだよ。

・・・母さんをはそれを言いたかったんだな。そう思えたんだ。

そして、俺は謝りたかったんじゃなくて、母さんとの時間をただ過ごしたかっただけだったんだ」


母とその会話をした日から、同じように花の元へ行っても、再び母に会えることはなかったらしい。でも兄本人は学者として花のことを調べたくて足を運んでいたという。
それは自分の為ではなく、忘れ花を必要とする人になんとか花を持ち帰ることはできないか研究していたそうだ。

そしてそろそろ時期が終わる、そんな今日、いつものように山へ登ると、あの場所に行かなくても、忘れ花が咲いているのを発見したそうだ。それも何本も。
それを見た兄の頭に、花の名前が浮かんだそうだ。


ー忘れ花。

ある山に毎年同じ場所、決まった時期に咲く花がある。

会いたい人と会話をすることのできる不思議なその花は、
必要とする者には追い求める存在で、そうでない者には摘もうともされない名もなき草木の一つでしかない。

死んだ者に囚われることは、今を生きることが困難になる。
囚われた想いをもし解放することが出来たなら、今と向き合うことが出来る。

忘れる、ことは生きること。
忘れるのは亡き存在ではなく、囚われた自分自身。



兄は花の香り成分を持ち帰ることに成功していた。

でもそれを使うわけでも、忘れ花の存在自体を公表することもなかった。
以後、あの山が見える麓で余生を過ごした。
そして、あの花の話はほとんどしなくなった。

兄は生涯独り身であったが、私は結婚し娘を授かり、その娘もまた嫁に行った。娘が孫を連れ帰省してきた時にだけ、懐かしそうに花の話をするようになった。
その孫が今、離れた土地で店を開店させたそうだ。
何の店かは聞いていない。

もう随分と長い間あの花のことで私を尋ねてくる者もいなくなった。
もし、兄とちゃんと向き合えずにいたら、私もあの花を頼ったかもしれない。

兄が教えてくれた。
花が必要のない生き方を。

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