カタルシスのないドラマの面白さ。

※本ノートはドラマ『けもなれ』のネタバレを若干含みます。
 2019年2月16日に「TBS」を「日テレ系ドラマ」に修正しました。

昨日、日テレ系ドラマ『獣になれない私たち』の最終回でした。

1話からずっと楽しみに観ていて、最後までとても面白かったです。
ただこのドラマは、結構好みが分かれたみたいで、ネット上でも否定的な意見を目にしましたし、リアルでも「あんまり…」という意見を聞きました。

もちろん、どんなものでも好き嫌いは分かれるのでそれはそれでいいのですが、もしかしたら楽しみ方それ自体が分かってないとすると、とても勿体ないなあと思い、このnoteを書くことにしました。

今回の『けもなれ』、一番の特徴は何かと言われれば、

カタルシスがない。

このことに尽きると思います。

カタルシス
文学作品などの鑑賞において、そこに展開される世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放され、快感がもたらされること。

少し難しく聞こえますが、要するにドラマや映画を観たときの、爽快感・すっきり感をカタルシスといいます。探偵モノで犯人が分かるのもカタルシスですし、一番典型例は悪役が出てきて、主人公が一度は追い込まれるけど、最終的に勝つ!みたいなのです。
多分、このカタルシスというのは、ドラマにとってとても大切な要素で9割形のドラマには、このカタルシスがあるように作られているといっても過言ではないはずです。

しかし、この『けもなれ』、まあカタルシスがありません。
主人公たちは全然変化しないし、状況も対して変わらない。
苦しそうに働く、言いたいことは言えない。そんな現実さながらのドラマに「なんでこんなもの、ドラマで観なきゃいけないんだ!」という意見が出るのも分かります。特に9話のカタルシスのなさはじんじょうじゃないです。終盤。主人公の晶(新垣結衣)が会社の社長のやり方に異を唱え、思い切り吠えたのに仲間はそれに続こうとしない。恒星(松田龍平)は不正会計をやめようとするもはっきりと突き返すことができない。こんな展開、通常のドラマならありえない。もちろん、これらは最終話である程度回収されていくのですが、9話という枠組みの中で観たときのこの「スッキリしなさ加減」は凄いです。

そして、このドラマ、完全な善人もいなければ、完全な悪人もいないです。
晶や恒星も完全な善人ではない、逆に悪い側である晶の会社の社長もまた、単なる悪人ではありませんでした。善人も悪人もいないなら、そこに「善が悪を倒す」というカタルシスは生まれようがありません。

ここまで書いてきて、「それじゃあ、カタルシスのないドラマなんてつまらないじゃん」と思った方もいるかもしれません。しかし、ぼくにはそうは思えません。『けもなれ』は今クールの中で一番のドラマだったと思います。

こうしたカタルシスのないドラマのどこを愉しめばいいのか、これを文章で表現するのは難しいです。ただ、感覚としては、ぼんやりと眺め、自分の心を投影しながら、じっと見つめる感じです。
現実から地続きになって描かれているフィクションを観ることで、自分自身もそこにいるかのように、ゆるやかにその世界を愉しむ。少し気の利いた会話にクスリとしながら、時に現れる突き刺さるような本物のことばに自分自身を見つめ直す。ストレス解消として観るわけじゃない。スッキリとはしないかもしれないけれど、人生の苦さもあわせて愉しむような、そんなイメージです。

カタルシスがない代わりに、そこには生の世界があります。つくられた生の世界の手触りを味わうことは最高の面白さだと思います。外を見てスカッとするのではなく、内を見つめ、そのわからなさを愉しむんです。

もちろん、カタルシスのあるドラマも大切です。ぼくも好きです。

だけど、それだけじゃあちょっと退屈で。このドラマみたいな、カタルシスのないドラマもまた、必要だし、せめて各クールに1つくらいはこんなドラマがあってほしいなと思います。

最終話にはカタルシスが多少ありましたが、普通のドラマとは全く違う着地だったと思います。カタルシスに軸がないことは明らかでした。
マイナスが少しゼロに近づいていく、それもまた人生で…という終わり方は、とても好きでした。

以上、一番好きなドラマは『カルテット』の、カタルシスのないドラマ大好き人間が『けもなれ』の感想を書いてみました。

次のドラマもたのしみです。

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