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日々のあわわ #4【四十五歳は遠すぎる(その1)】

 人生で一度だけ、占い師に見てもらったことがある。
 もう六年も前のことだ。

 そもそも私は占いを信じるタイプではない。星座占いだろうが血液型占いだろうが動物占いだろうが一度たりともピンときたことがない人間だ。毎日めざまし代わりにテレビのオンタイマーを使っていると、「ごめんなさい、今日の最下位は蠍座のあなた」などと、よく考えるとまあまあ失礼な物言いで目が覚めることもあるが、一度もガッカリしたことはない。

 そんな占術信心とは無縁の私が、なぜ占い師の元などへ出向いていったかというと、これはもう「ヤケクソ」の一語に尽きる。
 その頃の私は、妻の不倫が発覚して別居となり、離婚やら調停やらに向けて動かねばならないという状況で、精神的にかなり疲弊していた。生活への意欲も、未来への希望も感じない。もはや陰陰滅滅たる虚無感が、ただ二本の脚で支えられている状態であった。
 そんなある時、私は二か月ほど前に妻が「視てもらった」と言っていた占い師の話をふと思い出した。その占い師は妻の知り合いのまた知り合いで、精神疾患からの復職への一歩として占いをやっており、自分も視てもらったところ、「いまの旦那さんは貴方にとってとても良い人なので手を離してはいけません」と妻に告げたという話だった。なんともはや、苦笑いを浮かべずにはいられないではないか。いまの俺をちょっと見てみろ。いい笑い種だ。
 そしてふと思った。もし、その占い師が自分を占ったときに何と言うだろう。

「実は私、先日貴方が占った女の夫なんですがね……ああ、今は”元”夫と言うべきでしょうか。いえね、貴方は私のことを評価してくれたみたいですが、当の本人はそうでもなかったようなんですよ。可笑しいですよね。ところで私の今後の人生、どう見えますか。酷いもんでしょう?いいんです、どうぞボロクソにおっしゃってください。いや、ことによるとその方が清々するかもしれないなぁ。なぁに、もうどうせこの人生には一片の期待も寄せていないんですから!」

 このような心理で店に足を運ぶなど、いま考えると酷い話だ。厄介な客きわまりない。反省している。しかしその頃の私のエンジンを回していたガソリンは「どうぞさっさと殺してください」と言わんばかりの自暴自棄の心だったのだ。

 その週末。商業ビルにある飲食店、その隅のテーブルで占い師は待っていた。歳は私よりも十ほど上だろうか。メガネをかけた真面目そうな細身の女性だった。まず私はこれまでの流れや、妻が以前占ってもらったこと、現在の状況などをつらつらと話した。
「それは大変な想いをされましたね……」
 よくわからない道具やファイルが並ぶテーブルの向こうで、占い師は微笑んでいた。
「それで」と彼女は言った。
「何を占いましょうか」
 そう訊かれてハッとした。捨て鉢な気分だけでやってきたため、何を占うかという肝心なことは何も考えていなかった。それどころか、そもそも占いというものをさほど信じていないことも思い出した。
「うーん、そうですね……」
 言うことが見つからない。その時はわからなかったが、今ならハッキリとわかる。なんのことはない。この段階でほとんど私の気は済んでいたのだ。結局私は自暴自棄で動いたようでいて、ただ単に誰かに話を聞いてほしかっただけだったのである。ほとほとどうしようもない客である。
「じゃあ……」と苦し紛れに私は口を開いた。
「今後、私が再婚することはあるのでしょうか」

 その頃の私は結婚というものに辟易していて、街で夫婦を見かけるたびに「なんと哀れな連中だ。あんな楽し気にしていたって腹の中じゃ相手をどう思ってるかなんてわかりはしないのに」とひねくれた想いを抱いていた。私は夫婦という概念に途方もない虚無感を感じていたのだ。
 結婚なんてまっぴらごめんである。

 そんな気も知らないであろう占い師は私に笑顔を向けた。
「では視てみましょうか」

(つづきます)

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