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反骨、逆張り

 私はどうでもいい反骨精神が昔から強い。

 たとえば、エスカレーターに乗るときはだいたい右側に立つ。エスカレーターの片側を空けておくのは一定の合理性があることはわかっているが、どう考えても両側に2人で立った方が全体幸福の増大には繋がるからだ。
 実は数年前に東京に遊びに来た際に、いつものように右側に立っていたら後ろにいた男に「おい!」と文句を言われたことがあるが、私は功利主義のシンパなのでこれしきの叱責であれば、やはり右側に立って全体幸福に貢献したい。その男にとっては不幸なことであるが。
 というか、もはや私はエスカレーターの前に大行列ができていると、エスカレーターの右側に積極的に立つようになっているし、あのとき後ろの男が怒りを向けてきたような瞬間が、いつの日か訪れるのを楽しみに待っているような気がする。早く喧嘩を売られたい。
 そもそもエスカレーターは両側に立つようにエスカレーター会社や駅などから要請されているわけで、私には一応、正義の後ろ盾があるのだ。正しさに身を包むのは最上の喜びである。
 たぶん、私みたいなやつを凝縮したらテロリストができるのだろうな。「正しさ」を最強の矛・最強の盾・最強のエンジンにしてどこまでも突っ走れる。

 また、横に一列になって歩いている大学生たちなどを見ると、肩がぶつかるのもいとわず列の真ん中を突っ切ろうとする。
 あちらはまさかこちらが列を避けないとは思っていないから、本当にぶつかる直前までまるで自分たちが世界の主人公のように肩で風を切って談笑しているのだが、そこを何食わぬ顔で割って入るときなどは、最高の気分である。風を切っていた彼らの肩が私の肩にぶつかると、彼らの中に不気味な気まずさをもたらされるのだ。鳩が豆鉄砲を食ったよう、とまではいかないが、若干のいたたまれなさが残る。まあ、0.5秒後にはまたさっきまでの賑やかな雰囲気に戻るのだけれども、その0.5秒に満たない刹那を栄養にして啜っている妖怪がこの私なのだ。
 断っておくが、通りを横一列になって占領するのは、一般に迷惑なことである。だから、列を何とかすること自体はそんなに間違っていないことだと思う。しかし、本当に正しい人ならば、直接やんわりと注意するだろうから、私は「正しさ」の影に隠れて性格の悪いことをしたいだけなのであろうな。たぶん、近いうちに天罰が下る。

 今日、スマホのデータ残量が残り2GBしかなくなり、iOSをアップデートできなくなってしまった。普段の小さなアップデートならなんとかなっていたのだが、今回のアップデートは2GB以上を要する大型のものであったため、スマホが耐えきれなくなってしまった。
 しかしなんでこんなことになったのかと元をたどれば、私がどうせスマホで写真など撮らないだろうと高をくくって、購入時に64GBモデルを選択したからだ。当時の私は携帯電話で写真を撮ることについて、妙な嫌悪感を持っていた。なんとなく、携帯電話でパシャパシャと写真を撮るのは、はしたないというか、正統派ではないなと思っていた。写真を撮るなら、カメラでも持ちなさいよ、と。今思えばバカげた話だ。
 データ残量を確保するためにスマホの写真をパソコンに移すことにした。18GBほどが写真なので、これを片付ければ相当空くことだろう。
 作業をしているうちに、昔撮ったであろう写真を数多く見たのだが、困ったことに全然覚えがない写真がある。これを撮ったのは本当に私で、私は本当にその場所にいたのだろうか。写真に映っているのはどう見ても私なのだが、この身に本当に起きたことなのか自信が持てない。でも、不思議と覚えのない写真を見るのは楽しかった。

 遠い日の思い出はどれも曖昧だ。というか、私は全般的に記憶にどうも問題があるようで、昨日のこともあまり思い出せない。自分の年齢も自信がない。ノーランの映画『メメント』には記憶が10分間しか持たず、記憶の補完のために写真を撮る主人公が登場するが、彼を見習って私も写真をもっと撮るべきか。

 どうでもいい反骨精神は捨ててスマホでパシャパシャ写真を撮りなさいよ、自分。自撮りとかもしたほうがいい。突然死んでしまったら、葬式で使う写真に困るよ。死んでからも迷惑かけてたんじゃ救いようがない。
 だから、スマホで写真を撮りなさいよ。どうせ正統派に生きることもできない。第一、カメラ持ってないんだから。

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