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小説/女優の子 十二


伊澤ちはる 四


“きれいなお花を浮かべましょ
睡蓮 浅紗あさざに 水芭蕉 
月のない夜は きよらなり
ひいふうみっつ 数えたら──”

通りがかった森沢家の裏庭で、おさなごが歌っている。先日森沢邸にお邪魔したときに紹介された養女──名前は確かみおといったか。あんな手まり唄はここでも以前の世界でも聞いたことがない。あれほど着物で体をぐるぐる巻かれては、まりをつくにも動きにくかろうと思うのだけれど、不満はないのだろうか。

“サァサ手をとり
踊りましょ
踊りましょ”

まりは、澪の手と地面との間をぐねぐねと生き物のように往来いききして跳ねる。歌のせいで遊びなのか儀式なのか、無邪気なのか不気味なのかわからない混沌さである。彼女を紹介されたとき、隣の菫はぎょっとした顔をしていた。そのときはさして気にも留めず、菫は以前からこの子を知っていたのかと思った程度だった。あまり覚えてはいないけれど、椿に似ていると言っていたか。
けれどこうやって改めて様子を見てみると、よくいる普通のおさなごとは確かに何かが違っているように思われた。それで少し気に掛かって、垣根越しに彼女の様子をしばらく見ていた。流れる映像をぼんやり視聴しているような感覚で思考が内側へ傾いてゆく。少し、頭がくらくらする。
ずっと脳みそにフィルターがかかっている。
脳が全力で仕事をするのを阻まれているような、思考や情緒の部分がそのフィルターのせいでうまく作動していないような。なにかおかしい、なにか足りないとふとしたときに思うけれど思うだけで、それ以上先に進んでいけない。怪我をした当初は分泌されるアドレナリンの効果でしばらく痛みを感じないものだけれど、そういう感覚と少し似ている。私はちゃんと百合を全うしたいのに。

「あ」

澪が猫の子の鳴くような短い声を出し唐突によろめいた。まりは澪の統制下から逃れ、垣根のほうに転がり出した。

揺らいだ。

あ、と私も口に出していた。まりを追いかけていた澪の目線はその瞬間こちらへ移り、図らずとも見つめあう形となった。
──知ってる。
分厚い化粧で透明さを失った澪の肌。不透明な濁りの水で満ちた淵。うまく移行出来ない。息が苦しい。助けて、と思っている。
──百合が。
揺らぐ。揺らいでもがく。善い揺らぎか悪い揺らぎかといえば、悪いほう。
脳みそのフィルターがみるみる薄くなり思考は明瞭になっていった。イメージのなかで、私はもがき苦しむ百合を俯瞰している。俯瞰している私の自我は、
ちはるだ。
「おいで」
澪は垣根の隙間をくぐって素直にこちらへやってきた。
美しい百合の体は私のものになって、ありふれた私の体は百合のものになって、そうして私たちは各々それを納得ずくで入れ替わった。でも、二人分の記憶が混在してしまうことには納得していない。
「あなたは」
椿と思った──と昨晩菫は言っていたか。
「森沢澪と、申します」
「知ってる。この前のお茶会で聞いたから。私もいたの、覚えてる? 」
澪はハイと唇の動きで肯定した。
「ここに来る前、どこにいたの? 」
訊かれた澪は、今度は唇を内側に巻き込んだ。







私がちょっとしたことですぐ死にたがったのは、生きることが寂しいから、という甘えた理由だけではなかった。世界から私が生きていることを歓迎されていないような感覚があったゆえだった。それは誰のせいでもないのだろう。物心ついた頃からすでにそうだったから原因ははっきりしない。ただ、思っていた。私の存在は間違っている。
──ちはるはホームがないからシックが常態だね。
葉にそう言われても平気で笑っていられたのは、彼だけは私を見捨てるはずがないとすっかり信じきっていたからだ。葉の全部を信じていたから、もう信じられない事態となったとき私の全部が裏切られたような致死量のダメージを受けた。
ホームがないという葉の言葉は、もう笑って聞いてはいられないほど私を追い詰めるようになった。
私はどこにも繋がれない。
からっぽだ。
ずっと前から退去勧告を受けていたこの世界から、いよいよ出て行かざるを得ないことを悟り、右にも左にも動けないようになった。
そうして結局どうなった?
どうにもならない。世界を変えて姿を変えて、服も靴も鞄も髪型も住処も新しくしたけれど、やはり私はこうやってちはるに戻ってしまうじゃないか。

ではこの子は?

椿にも百合にも思われるような面影があり、継母の望み通りに振る舞うおさなご。今私の目の前で大人しくされるがままになっているこの子に、ホームはあるのだろうか。
なぜそう思ったのか、分からない。分からないけれどこの子を見ているとどうしても思い出す。水の底。言葉の泡。涙の氷晶と初めて会った美しい百合と──。

思わずしゃがみ込んで、澪の頬をたなごころで包み込んだ。澪は動じず、子牛のようにまん丸で真っ黒な遠心顔のでこちらを見つめ返すだけだ。
私は制服のポケットからハンカチとハンドクリームを取り出して、ハンドクリームを乗せたハンカチで澪の顔を丁寧に拭う。素直過ぎるほどに彼女はされるがままだ。

すべて拭き取ると、その下からようやっと本当の澪が出てきた。魔法が解けたように呆気なく、澪は年相応のおさなごになった。
肌には透明な産毛が光り、血色は内側からじんわりと透けるようで、この上なく自然だった。



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