雷 第五十四話

江戸城から戻った勝は、そのまま平服にもどり、そのまま十兵衛に、続きを話しはじめた。
「正直いうってえとね」
「はい」
「俺ぁ、幕府が無くなるのはそう遠くない、と見たね」
 幕臣の言葉にしては、少し口さがないであろう。勝の立場は、十兵衛こそ知らないが、すでに軍艦奉行並という、いうなれば軍事職の中枢に当たる上級職である。立場上、口が裂けても言ってはならぬ言葉である。その勝が、にべもなく言ってのけているのである。
「確信が、おありなのですか」
「おお、おおいにおありだね」
 といって、勝は江戸城に呼ばれた理由を十兵衛に言って聞かせた。すると、十兵衛は表情を変えず、
「それはそうでしょう」
 といった。分かりきっている、とでも言わんばかりの無表情さである。
「つまり、お前さんはこの事を分かっていた、と」
「長州にいた頃は、長州が一日毎に、子供が大人になるような速さで強くなっていたのを見ていました。薩摩と長州は、この国において、異国と戦ったところです。こう言ってしまえば何ですが、幕府はその点で大きく遅れている、と言わざるを得ません。有体に申せば、勝ち目はありません」
「お前さん、俺ぁ幕臣だぜ」
 十兵衛が何度も頭をさげるのへ、勝は笑いながら手で制すると、
「その事で、呼ばれた。俺に、この戦のあと始末をつけろ、とね」
「折衝、というわけですか」
「そういうこった。お前さんも来るかい。もしかしたら、なじみの連中に会えるかもしれねえからね」
 十兵衛と勝は、江戸から大坂に向かう船上の人となっていた。
(まさかとんぼ返りになるとは)
 十兵衛は予想だにしていなかった。吉川と永訣したつもりで出ていった大坂であったのに、また舞い戻ってくるとは考えにも及ばなかった。
「船は初めてじゃないようだね」
 十兵衛の姿を見ながら、勝は悪い安酒を喰らったように顔が青ざめている。
「だから船は嫌なんだ」
 と、甲板の縁に顔を突き出しては、覗き込むようにしてえづいている。十兵衛がやさしく背中をさすると、多少楽になったようで、首筋辺りに生気がほんの少しだけ甦った。
「まあ、サンフランシスコに比べりゃ、大坂なんぞは、隣町に行くようなもんさ」
 と強がっては見せるものの、やはり波の揺れには勝てないようであった。
 大坂に着いた二人はそのまま陸路で今度は京に上った。
 先ほどまで生霊でも見たように青ざめていた勝の顔は途端に血色を取り戻し、
「人間は、地に足つけて生きなきゃなるねえよ」
 と軽口を飛ばせるほどにまで、調子を戻していた。
 京に到着するなり、物々しい空気を敏感に感じ取った勝は、
「難物相手だね」
 といった。
 勝はそのまま二条城に入った。十兵衛は、そのまま
「俺の腕利きの用心棒さ」
 ということになって、十兵衛も同席することになった。
 二条城には、越前松平春嶽、老中板倉勝静、会津からは秋月悌次郎、薩摩は西郷がそれぞれ立ち会っていた。
「こりゃ、随分とおそろいで。将軍家茂公の命を受け、江戸より勝義邦がまかり越しました。これに控えるのは、我が弟子の楠十兵衛と申す」
 十兵衛が軽く頭を下げると、西郷が十兵衛の顔を気に留めた様に一瞥すると、
「薩摩藩西郷吉之助と申す。以後お見知りおきを」
 といって、再び顔を他の三人に向けた。
「で、どういう要件ですか、春嶽公」
「それも知らずに、此処へ来たのか」
 松平春嶽は扇子を広げては音を立てて閉じ乍ら、笑っている。
「何せ、家茂公からの御命令で、京に上れとだけですからね。で、何かありましたか」
「あったもなにも、薩摩が出兵を拒否しているのだ」
 ほう、と勝は口をすぼめた。
「それで、会津中将様は何と」
「会津中将は、一橋様と共にこの度の征討には、長州にとどめを刺す絶好の機会であり、また諸大名を平伏させるにはうってつけである故に、出兵するべきだといっている」
(時代遅れが)
 勝の目からすれば、会津と一橋慶喜の今回のこの行動は、頑迷固陋にしか感じられないのである。
「儂は、この戦は反対だ。先ず、今回の長州征討には意味がない」
 と、口火を切ったのは松平春嶽であった。
「家茂公による御親征であったとしても、そもそもこの戦に大義名分はない。一橋様も、会津中将様もそこを弁えておられぬ」
 さらに、と春嶽は続ける。
「長州を討って、今更どうにかなるものではありますまい。それよりも、どうやってこの日ノ本を立て直すかを考えるのが急務でござろう」
 といって、捲し立てた舌を休めた。
「では、会津中将様の名代として、それがし秋月悌次郎が申しあげまする。長州は、先の征伐によって数人の首を以て恭順致しましたが、未だ毛利侯は江戸はおろかこの京にも上らず、長州に留まられておられまする。これを、それがしは「謀反」と捉えておりまする」
(謀反はちと言いすぎじゃねえかい)
 勝は秋月の言葉に内心ながらそう思っている。
「さすれば、今一度、長州を討つことで御公儀を中心とした体制を作り上げるのが王道かと心得まする」
「だが、秋月どんよ。おいは思うに、これ以上の戦は民百姓を苦しませる事になりもそ。それでは意味がありもはん」
「西郷殿は、再度の征伐に拒否されておりまするが、それが理由でござろうか」
 西郷は、ゆっさと体を秋月の方に向けて、
「長州征伐は、おいが総督参謀として戦いもした。そしてその中で、長州は降伏しもした。それが、秋月どんのいう首でござろう。これ以上、長州をおいつめる事はなか。それでも、というのならば薩摩は兵を引き上げもす」
「西郷殿、臆されたか」
 秋月は、西郷の態度をそう見た。無論、この時点ではすでに薩長盟約は結ばれているのであるが、これは秘密同盟であるため、会津はおろか幕府も知らぬ事である。恐らく、この場でその事を知っているのは、十兵衛だけであろう。その十兵衛ですらも、確信的推論の域を出ない。
「臆しておるならば、ここにはおりもはん」
「ならば西郷殿。何故、渋っておられる。我らは禁門の変以来、歩みを同じくしてきたではないか。ここに来て、歩調を乱すのは長州を利させるのみで他に益はござらん。西郷殿、再考されよ」
 西郷は目をつぶって腕を組んだまま、黙っている。
(それでいい、西郷殿)
 勝は西郷の政治家としての、今の態度を絶賛したい気持ちであったが、立場上そうすることも出来ないでいる。その上で、勝は会津の、ある意味では単純さというものも憎からず思っているようで、西郷の態度の一方で、会津への憐憫も少なからずあった。
 ある意味では、長州と会津というのは、双生児の様に似ている様に感じる。長州は早くに勤皇色を持ち、其れ一辺倒に向かったのと同様に、会津は初めから佐幕色を全面に打ち出していた。これは、藩主の違いによるもので、会津松平家は、その始祖を徳川家康に持つ為、幕府に徹底した恭順を貫いていた。言うなれば、縛捕るの方向性の違いだけで、その一本気な気質は同等のもので、さらにもう一つ共通点があるのは、薩摩である。
 会津は八月十八日の政変から禁門の変に至るまで薩摩と共にし、長州はその後、つまり今に至るまでに盟約を結んでいる。無論、薩会同盟というものはなかったが、薩摩に翻弄されたという意味でも、長州と会津は似た者同士である。
 逆を言えば、それだけ薩摩の政治的行動は卓越するものであったともいえ、そういう意味では薩摩は狡猾である。
 西郷の目の前にして、怖じることなく説諭し続けている秋月は無論、薩長盟約の事は知らない。だが、この西郷の態度に、不穏なものを感じていたのは誰が見ても明白であった。不穏、というよりも疑惑といっていい。それを、秋月は
「長州と何かありましたか」
 という言葉に置き換えてみた。
「長州とな」
 西郷は喉の裏側をめくり上げるような素っ頓狂な声を上げて、わざとおどけて見せた。
「長州は関係ありもはん。おいはただ、今度の戦は意味がないちゅうことを申し上げておりもす」
「ならば、貴殿は長州をこのまま野放しにせよ、という事か」
「そうではありもはん。長州に弁明の余地を与えて、それ如何によって処罰をするのが穏当と申し上げておるだけでごわんど」
「私もそう思う。会津は、殊の外長州を目の敵にされるようだが、長州はすでに御公儀に降伏をして、首謀者たちを処断している。これ以上つつけば、窮鼠となって噛まれるぞ」
 春嶽も西郷に同調するように合わせた。
「御老中は、どう思われるか」
 板倉はそれまで上下の口唇によって息を漏らさぬようにしていたが、ゆっくりと口を開けると、
「それがしは、秋月殿の申すことが道理と考えておりまする。一度恭順したとはいえ、未だ長州の中に燻っている一部の勢力が、御公儀に対して盾を突くのであれば、これを鎮めるのは当然かと存ずるが」
「が?」
「すでに諸外国が接近している昨今の状況を鑑みるに、これ以上の強硬は却って危のうなるであろう。しからば、ここはある程度の寛大な処置をもって臨むべきかと思う」
 と、四者がそれぞれ分かれてしまったのである。勝は、じっと腕を組んだまま、固まり続けている。
 勝は、
(恐らく長州は勝つ。そして、大公儀は瓦解する)
 と予てより考えている。もし、幕威というものが確かに存在するならば、そもそも長州はこのような事にならなかったであろうし、大老暗殺から始まった一連の動乱もなかったであろう。さらに言えば、長州がほんの少しでも素振りを見せるだけで、減封か最悪改易という処分も易々と下せたはずである。よしんば、この事態になったとしても、前の征伐のように士気が低いという事はなかったであろうし、そもそもこのような議論をすることなく、長州は壊滅できたはずである。
(それが出来ない程に、幕府は衰えているのよ)
 勝は、細い喉に手を突っ込んでこの言葉を引きずりだしたい衝動に駆られているが、それをしてしまえばこの調停はすべてが潰れてしまい、とおい戦国の時代が、目の前でやっている紙芝居の様に見せられるだけである。そうなれば、異国の侵入を易しくさせ、それは清国同様の憂き目にあう事はすぐに想像できた。それこそ、勝やその弟子といえる坂本ら、あるいは高杉たちの望むところではない。
「勝殿は、どう考えられる」
 春嶽に水を向けられて、勝は逡巡して後、
「この戦はやめといた方がいい。もし、これで幕府軍が」
「御公儀、と呼びなされ、勝殿。貴殿は、直参の幕臣ですぞ」
 板倉が細かく口をはさむ。
「その御公儀が、もし長州に負ければどうなる。一夜にして、幕府いや、御公儀はその威信を喪う。それでもよろしいのか」
(まあ、喪ったほうがいいがね)
 と、勝はそこまでは言わない。それを聞いた秋月は、
「勝様は、我らが負けると思いか」
 と、畳を握りつぶさんばかりに掴んで、辛うじて激昂を抑えて言った。
「そうじゃありませんよ。兵法には万が一ってやつがありますからね、それに、内輪揉めなんぞやってる場合じゃないでしょう」
「その内輪揉めを収束させるためにも、長州藩主が出てくればすむものを出てこなかったのが原因でありましょう。だとするならば、此処は速やかに長州を平定し、御公儀を中心とした体制をもう一度築きべきではありますまいか」
(それじゃ、前と同じじゃねえかよ)
 と、勝は毒づきたい気分であったが、西郷は秋月に向かって、
「もし、会津や一橋様があくまで征討する、というのならば薩摩は出兵を致しもはん」
 といって、懐から出兵拒否の念書を取り出すとそれを板倉を渡そうとした。すると秋月は
「ならば、薩摩は長州側につくと見做して、我らは薩摩を討つ」
 といった。それが口先だけではないのは明らかであった。勝は、
「とにかく落ち着きましょう。ここで、おたくらが争っても何の利にもならねえ。ここは、それがしに預けちゃくれませんか」
 勝は、西郷出した念書を取上げる様にして懐にしまい込んだ。
「秋月殿も、西郷殿もこれで引いちゃくれませんか。ここは、俺に免じて」
 と、口調こそ穏やかではあるが勝は敢えて侵しがたいほどの威圧感を小柄な全身から噴出させていた。そこへ、春嶽も
「勝殿に預けよう」
 といったので、秋月は渋々ながら勝の申し出を了承した。憤然として、秋月は立ち上がると武士としての理性を辛うじて保たせていたようで、早々と一礼するとそのまま出ていった。
「やれやれ」
 勝の汗が決壊寸前の土嚢の隙間から漏れる鉄砲水のように噴出した。その思いは春嶽も同じようであった。板倉も
「お役目がある故、これにて」
 といって、こちらはやや余裕を持って部屋を出た。
「これで、矛を収めて呉れりゃ文句はないんだがね」
「勝殿。わざわざのご苦労様でござりもす」
「西郷殿、ひとつだけ聞かせちゃくれねえかい」
「何なりと」
「龍馬に、会ったかい」
 というこの勝の質問の意味を、西郷は素早く理解した。そして、
「会いもした」
 と答えた。
(これで、幕府に勝ち目はねえ)
 勝の見立てでは、すでに薩長は手を結んでいる、と見ている。そうなれば、容易には長州は落ちないだろう。幕府軍が一番当てにしている一つが、薩摩だからである。薩摩はイギリスとの戦争から、異国の軍備をいち早く導入している。いうなれば、この当時の日本において最新鋭の軍備と軍制を敷いている軍隊の数少ない一つである、といえる。その薩摩が幕府側ではなく、長州側についたことの影響は幕府、長州双方に非常に大きいものである。
(そこへ、龍馬だ)
 坂本は亀山社中なる組織でもって、薩摩と長州の間を往来している。噂の域を出ないが、薩摩名義で買った洋式銃を長州に流して、長州の軍備を整えさせるのに一役買っている、という。
 一方幕府の方は、諸藩に触れを出して軍勢を掻き集めているものの、その士気はすこぶる低いであろう。さらに言えば、軍備の点においてもまるですでに失伝した古流剣術のような古臭さがあって、とても使えたものではない。物量の点においては前述したとおり幕府軍の方に利があるであろうが、しかしそれは正規の軍隊というよりも、寄せ集め傭兵集団のようなもので、その藩ごとにも方針が違えば、足並みなど揃うはずもない。
「そうなれば、薩長が有利になる、か」
 勝は何とも言えぬ蟹の甲羅を誤って噛んだような複雑な表情で嘆息した。
「それでは、おいはこれで」
 西郷は大きな体を少し窮屈そうに持ち上げると、そのまま存外に静かに出た。
 春嶽はその表情を察して、
「どうにも、割り切れぬか」
 というと、勝は苦笑した。
「まあ、こう見えても直参ですからね。口じゃ幕府は終いだのどうだのと言っても、どこか寂しいもんだ。それだけじゃない、今この国は争ってる場合じゃねえ。ましてや殺し合うなんざ、海の上で手ぐすね引いて待っている異国の連中に付け入る隙を与えるだけさ。そうなりゃ、清国の様になりかねない。この国を一つを纏めなけりゃならねえときに、こんな子供の喧嘩のようないざこざなんぞやってる暇はないさ」
「その纏まる柱は、何処になるのかね」
「薩長か、幕府か、ってことですかい」
「どこになると思う」
 さあ、と勝は首をひねるばかりで答えない。
「まあ、どのみち、この戦は無駄になるさ。会津も一橋様も、すぐに知ることになるだろうさ」
 春嶽はやや不快そうに首筋を扇子で叩いた。

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