雷 第二十話

 奇妙な一団だったであろう。
 ある者は朱鞘の大小を帯びて朴歯の下駄を履き、新調した小倉袴に木綿の着物、その上に白鼠色の羽織に頭は大銀杏のように広がって威張っている者や、あるいは今から戦国期の戦に向かう食い詰め傭兵のようにみすぼらしい者、さらにどう見ても博徒が徒党を組んでいるような連中といった、いうなれば団体において全くまとまりがない、無頼の集団といっていい一団が、中山道を西へと向かっているのである。
 名も浪士組と、確かに名を体で表すような一団であるが、この集団の目的が徳川将軍家の京において警護する、というのだから他の者が聞けば仰天したであろう。現に、仰天しているのである。
 浪士組は二月八日に江戸を出立し、京壬生村(京都市中京区)に到着したのが同月二十三日であった。八郎はすでに先行して京に到着していて、浪士組が着いたと知るや、すぐに各待機所を走り回って署名を集めた。
「これは、何の署名ですか」
 十兵衛はすでに清河に対する信用を損ねてしまっている。無論、清河も山岡からそれとなく聞いて察していたようで、
「秘して誰にも漏らさぬか」
 と取り繕ったように顔を真剣にさせると、
「これは将軍警護などではない。おぬしだからいうが、これは攘夷断行のための人集めだ」
 つまり、清河はその一身のみで幕府を向こうに回してペテンにかけようとしているのだ。十兵衛とてそれが分からぬほど愚かではない。
「それでは、幕府を騙ることになるではありませんか」
「よく考えろ。そもそも、我らは何のための同志なのだ。攘夷の同志であろう。そして我らの敵は幕府だ。その幕府を倒すためには徒党がいるのだ。おぬしも塾にいたのだから分かるであろう」
「しかし、それでは清河殿は稀代の詐術の士となりますぞ。それでは人はついて行きませんぞ」
「これは、帝の御認可を頂くことになっている。つまり、我らは「帝の衛士」となるのだ。言うなれば我らに大儀が立つのだ」
 と清河はいった。しかし、どう言い訳をしても十兵衛の言う通り清河の取った行動は詐欺以外の何物でもなく、このいうなれば至誠よりも先に才気が出るあたりにこの清河八郎という男の本質があるのであろう。これは狡猾、奸智といっていい類であり、これが清河の限界であったように思える。清河八郎を評するにあたって必ず出てくるのが「百才あって一誠足りず」というものである。恐らく、幕末動乱の時期において、才気という点で清河に肩を並べるものがいるとすれば土佐の武市半平太、薩摩の西郷吉之助、あるいは長州の高杉晋作といったくらいであろう。一種の奇才、といっていい。しかし、その奇才に走るあまり、人を動かすのに根本的に必要な「至誠」というものがなかった。他の三者と清河の大きな相違はその部分で、武市の場合は土佐勤皇党、高杉は奇兵隊、西郷は薩摩そのもの、といった具合に至誠の大きさがそのまま声望と人数の違いになり、この中では西郷が最も至誠に長けた人物であったことになる。
 しかし、清河は遂にその至誠を持たなかった。いや、持てなかった、というべきかもしれない。なまじ人よりも才が回り、先を見通すことができただけに、その才に溺れたのである。清河とは、そういう人物だったのではあるまいか。
 無論十兵衛は身を持ってそれを知っている。故に以前ほど頼るという事をしなくなった。だが、浪士組に入っている以上、その規則にはしたがねばならない。
 将軍家茂が上洛を果たしたのは三月四日の事であり、これは三代将軍家光以来、二百二十九年ぶりという一大行事であった。供は老中を筆頭にその軍勢凡そ三千ほどであった。ちなみに家光の頃の上洛規模は三十万と言われており、今回の上洛の規模は1パーセント程度でしかない。こう書くといかにも幕府の権威が落ちたように思われるが、実際江戸幕府には「旗本八万騎」と言われる直参連中がいるわけで、八万という数字は少し過大としても実際には五万から六万程度の軍勢はいたはずである。それを三千にまで下げたのは、実は朝廷による圧力があったのではないか、という噂が立っていた。恐らくそれは正しいであろう。公家は本来軍隊を持たない。そもそも公家が嫌がったいうなれば「汚れ仕事」をやって来たのが武士であり、それが武士団の形成へと繋がっていくのであるから、当然公家は軍隊を持つ事がなかった。
 その武士が数万の軍勢でもって京の都に押し寄せて来れば、京はその軍勢を見て不安を増大させ、無論それは治安の低下、さらに朝廷と幕府との間に建てつけの悪い扉に吹き込むような隙間風が通ることで、諸外国に隙を与えることになる。孝明帝がそこまで考えていたわけではないであろうが、少なくとも幕府がその軍勢でもって半ば脅すようにして押し寄せてくることを嫌がっていたのは間違いないであろう。
 そしてその警護の補完をするのが浪士組であるはずだった。ところが、これを八郎は根底から覆す、というのである。
 その計画を面に出したのは、将軍が上洛を果たす前、文久三年二月二十九日に遡る。
「これから江戸へ立ち戻り、攘夷を決行する」
 という八郎の一言に、十兵衛を除くすべての者が思考を麻痺させていた。やがてその麻痺が解けるように新徳寺の本堂は怒号に揺れた。特に大音声で怒鳴っていたのは、取締並出役手附という役目についていた芹沢鴨という男である。
「それでは話が違う。我らは徳川将軍家を守護するために来たのだ。そのような詐術を弄するなど、清河は武士の矜持はないのか」
 芹沢は野太いよく通る声で、本堂にいる清河を刺した。
「よいか。幕府は早晩瓦解する。我らは帝を頂におき、攘夷を断行して夷狄をこの神州から打ち払わねばならん。その為に貴様らを集めたのだ。この神州を守るためなのだ」
「詭弁だ。我らは徳川将軍家を奉じて尽忠報国の志を得て京に来たのだ。我は不同意する」
 といった鴨の隣で、もう一人の男が芹沢殿に同意する、と叫んだ。
「道中先番宿割、近藤勇でござる。われら試衛館も芹沢殿に同意し、この京に残って公方様の身辺を警護いたす」
 近藤勇とその股肱の友というべき天然理心流試衛館の数人は立ち上がって大いに吼えた。清河は、
「貴様らは署名をしたであろう」
 と鼻で笑うように言った。
「それがどうかしたのか」
 芹沢が尋ねると、清河は
「あれはすでに帝に上奏し、帝から許可も得ている。つまり、お前たちがここに残るという事は、帝の綸言に逆らうという事になるぞ。そうなれば逆賊の汚名を着せられるのは必定」
「黙れ!!このような詐術でもって帝を籠絡した貴様こそ大謀反人ではないか。我らは共に、尽忠報国の初志を貫徹する。近藤、行くぞ」
 芹沢は近藤ら十数名に声をかけ、近藤もまたそれに応じ、この十数名は新徳寺を出ていった。
 この十数名が寄宿しているのは壬生村の八木源之丞方で、この家は現存している。
 清河は芹沢たちを追った。そして、石畳の小路を急ぎ、八木家の門をくぐって御免、といって音を立て乍ら上がった。
 芹沢達は宛がわれた部屋に入って刀を置き、障子を開けて、くつろいでいた。
「芹沢、考え直せ」
「無駄だ。おぬしのような騙りに付き合う口はない」
「お前は元々水戸ではないか。いうなれば攘夷の本家だろう。そのお前が抜けてしまっては、万が一の時に束ねるものが居なくなる。あの、近藤とかいう連中はともかく、お前だけでも戻ってこい」
「清河、俺を担ぎ上げようという肚かよ。その手に乗るか」
「そうではない。もし、俺に万が一あった時に、束ねるのはお前だ」
 芹沢は鼻であしらうと、
「とにかく帰れ。顔も見たくない」
 なしのつぶてであった。
 三月三日に朝廷から江戸への帰還命令が出ていたにもかかわらず、結局十三日にまで延期が続いたのは、この芹沢たちを説得するのに時間を要したからである。結局、芹沢は折れることがなかった。
「莫迦か」
 清河からすればああいった手合いは迷惑この上なかったであろう。清河からすれば、芹沢や近藤は、時代遅れもいいところで、明らかに時流を読み間違えた凡人でしかない。
 京に残った連中を除いた浪士組はそのまま各地の屯所で待機をしていたが、朝廷から突如
 ―― 江戸に戻れ。
「では十三日をもって京を出立する」
 という事を朝廷に申上した。同志の中で最も信頼の篤い山岡はこれを
「体よく追い出しただけではないのか」
 と尋ねた。しかし清河は、
「そのような事がある筈がない。我らは帝の衛士となったのだぞ、我らは幕府の狗ではない」
 と、幕臣である山岡を前に言ったのである。これには山岡は苦笑し、
「おいらはその狗だぜ」
 と江戸っ子の気風よろしくからり、として言ってのけた。これには清河は大笑し、
「だが、お前は狗というよりも狼か、でなければ熊だな」
 といった。山岡の偉丈夫さは他の連中とは隔絶している。
「まあ、とにかく江戸に戻れば計画を練るぞ。あの時に出来なかったことを、今度こそするのだ」

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