記すということ

 コロナウイルスが猛威を振るい、その猛威にさらされ7畳のホテルで療養している今日という日も、記さないと忘れてしまうのだろう、と思った。それは僕が楽観的で、ご都合主義であるが故なのだろう。

 退屈だから自分が今までnoteに書いた記事を読んでいた。最近は仕事にかまけて忙しい毎日だったから、noteという存在すら頭の片隅になかったのだけれども。しかし面白い。2年前から遡り読んでいたのだが、書いた覚えもない記事ばかりだし、これは本当に自分なのだろうか?と思わされる。

 これは過去の自分は自分ではなく、この先の自分も自分である保証はないということだろうか。流れるように生きるだけでは、その変化を可視化することはできない。しかし、その時に思っていることを、その時の言葉で、忖度なく、時にはカッコつけながら書く。これこそが、記憶から振り落とされがちで、しかし当時の自分を象るには最重要であるフレームなのではないだろうか。

 味覚を失うと人生の光の半分を失う、電気毛布にもっと早く出会いたかった、ひとりぼっちの夜がつまらないと感じるようになった、ランジャタイの笑顔は世界を救う、家に帰ったらヘッドの小さい歯ブラシに変えたら?うん。こんなもんかな。

 何もなかったけど、こんな日々をセーブポイントに設定するのも悪くない。小さな寂しさは案外、遠くから見ると綺麗なのかもしれない。記しさえすればね。

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