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インタビュー田原町04『仁義なきヤクザ映画史』を書いた伊藤彰彦さんに聞きました1/2

10月14日、浅草・Readin’Writin’ BOOK STOREにて『仁義なきヤクザ映画史』(文藝春秋)の著者、映画史家の伊藤彰彦さんをお招きし公開インタビューを行いました。
質疑応答を含めた2時間に、脚本家を志し、映画制作にも関わるなかでノンフィクションのライターとなるまでの経緯を補足取材(後編)を加えた記録です。2万字になります。


話し手/伊藤彰彦さん
聞き手🌙朝山実


【ちょっと前置き・インタビュー田原町の説明 ※読み飛ばしてもらってもokです

「インタビュー田原町」は、週刊朝日の「週刊図書館」で30年間、著者インタビューを務めてきたフリーライターの朝山実が、雑誌休刊で「毎日が日曜日」とボヤいていたおり、出先の本屋さんで面白そうな本を見つけはしたけれどアウトプットできそうもない。ふと以前、安田浩一&金井真紀『戦争とバスタオル』(亜紀書房)の刊行記念イベントを観覧したことのある、浅草の本屋さんReadin’Writin’ BOOK STOREを思い出し「突然ですが、『芝浦屠場千夜一夜』という面白いノンフィクションがあるのですが、お店をお借りして著者の公開インタビューをさせてもらえませんか?」とDMを送ったところ(話したこともないのに)、快諾いただけたのが始まりです。
一回きり試みのはずが、店主の落合さんから「月刊田原町はどうでしょう?」と、思わぬお誘いを頂き定例化しています。ちなみに「田原町」はReadin’Writin’ BOOK STOREまで徒歩2分の最寄り駅の名前です。
01は『芝浦屠場千夜一夜』を書かれた山脇史子さん。
02は『ジュリーがいた』を書かれた島﨑今日子さん。
03は『ルポ 日本の土葬』の鈴木貫太郎さん。
11/4の05ではドキュメンタリー映画『NO選挙,NO LIFE』(前田亜紀監督)の「主人公」となったノンフィクションライター・畠山理仁さん(『黙殺』など)をゲストに迎えました。

では、はじまります  『仁義なきヤクザ映画史』インタビュー本文】

🌙わたしは、劇場でヤクザ映画は観てこなかったんですが、たまたま『私のはなし 部落のはなし』(満若勇咲監督・2022年)という部落問題をとりあげたドキュメンタリー映画の本の編集にかかわったことから、その映画のことが『文藝春秋』誌の『仁義なきヤクザ映画史』という連載の中で取り上げられているというので読んだのが伊藤彰彦さんを知ったきっかけなんですね。
そのとき『極道の妻たち 死んで貰います』(関本郁夫監督)という映画の中に、『私のはなし──』(以降略)のロケ現場のひとつでもある場所が登場人物の出生地として撮影された経緯と、いまは都市再開発で消えていったことが硬質な文章で綴られていて、この書き手はどういう人なのだろうと興味をもちました。というのもヤクザ映画はリアルタイムではほぼ観てこなかったんですね。あの『死んで貰います』は30年くらい前の作品でしたか?

伊藤(以下同)    1999年の映画なので、四半世紀くらい前になりますね。いまアサヤマさんが話された映画『私のはなし 部落のはなし』の劇中に、舞台となった地区に建てられた団地が大学の移転地となるというので取り壊される場面が出てくるんですよね。その団地が建つ前に川沿いにあったバラックの家並みが『極道の妻たち 死んで貰います』の中に出てくる。そのことの意味について書いた連載の回を読まれたということですよね。

伊藤彰彦(いとう・あきひこ)さん 
1960年愛知県生まれ。映画史家。ノンフィクションライター。
98年シナリオ作家協会大伴昌司賞佳作奨励賞受賞。著書『最後の角川春樹』(毎日新聞社)、『無冠の男 松方弘樹伝』(講談社)、『映画の奈落 完結編 北陸代理戦争事件』(講談社+α文庫)など


🌙そうですね。その際、伊藤さんはどういう経緯で『私のはなし──』を観られたんだろうということに興味がありました。映画だけでなく、満若勇咲監督の『「私のはなし 部落のはなし」の話』という本も読まれているようだし。ヤクザ映画史の文脈の中に取り上げられることが珍しいというか、変わった書き手だなあと思ったんですね。

映画『私のはなし』には感銘を受けました。公開されたのは2022年の春ぐらいでしたよね。公開後に映画の本づくりがスタートしたというのは珍しいケースで、公開1周年のリバイバル上映を今年の春に大阪のシネヌーヴォでやっていたときに観たんですね。そこの劇場は書籍も販売していたので本も購入し、あらためてまたロケ現場にも足を運びました。

🌙そうだったんですか。たしか『文藝春秋』の連載完結まで残り1、2回という段階で、単行本になったら読もうと思いながら伊藤さんが書かれた『映画の奈落 完結編』(国書刊行会、のち講談社+α文庫)を読んでみました。これは『北陸代理戦争』(深作欣二監督・1977年)という実際にあったヤクザの抗争事件をもとにつくった映画の公開後、映画のシーンをなぞるようにモデルとされる組長が射殺される事件が起きた。その経緯をルポした本で、親分の仇を討とうと潜行するヒットマンたちのドラマがすごいんですね。すこしこの本の説明を伊藤さんからしてもらっていいですか?

この本は2014年に国書刊行会から出ました。それまで東映のヤクザ映画についての本はたくさんあって、それらの多くはヤクザ映画のプロデューサー、監督、俳優に取材した本でした。それで『映画の奈落』では映画関係者だけじゃなく、映画にかかわった元極道の人たちにも話を聞き、映画人とヤクザの双方向から複眼的にヤクザ映画を検証しました。
というのも、映画人がモデルの親分を格好良く描きすぎて、抗争を煽りたて、映画のせいで親分が対立する相手に殺されてしまう。親分の仇を討とうとしてヒットマンたちが潜伏するんですが、思いを遂げることができず刑務所に入り、刑期を終えて出所後は土建屋や清掃の仕事をして、堅気になった。その人たちが自分たちの運命を変えた映画をどう見ているのか?  一本の実録映画が現実のなかで巻き起こした波紋を描いた本なんです。ヤクザ映画をご覧にならないアサヤマさんが読まれて、この本にどういう印象をもたれたのか、ぜひお伺いしたいですね。

🌙『映画の奈落』はヤクザものというよりも、映画の製作に関わる人たちの話として読みました。まず、いまでは考えられないことですが、映画のシナリオをつくるにあたって、現役の親分たちに会って話を聞くことからスタートしていくというのが、事情をよく知らないので、へぇーと驚きでした。
それで、映画のほうは先日、Amazonの配信で観たんです。面白かったのは、伊藤さんが松方弘樹さんをインタビューした『無冠の男 松方弘樹伝』(講談社)の中に出てくるんですが、『北陸代理戦争』で主人公の親分を演じるにあたり、モデルとなる親分が身体を揺する仕草を取り入れたという。じつは、わたし自身もインタビュー中に身体が揺れる癖があって、松方さんのその演技が、対面する相手によって左右に、前屈みなる揺れの度合いがちがう。唯一、揺れないのは関係をもった女の前という。「揺れ」に共感みたいなものを抱いたんですね。


そうなんですね。

🌙どうも、インタビュー中にコーヒーカップをもつ手がふるえたりするので、どうにかこの公開インタビューでは乗りこえたい。それがなんとか治まったと思ったら、身体がすごい揺れているよと家族から指摘され、今度は揺れかぁと、他人ごとと思えない。『松方弘樹伝』の中に、その揺れる演技のことについて松方さんが語っている箇所があります。
モデルをただ真似たわけではない。松方さんなりの肉付けをしていて、演技というのは見たままに真似るものではないというような話をされていて、それが印象に残りました。本を読んでもう一回見なおしたら、さっき言ったように対面する人によって揺れが微妙に違うんですよね。


そうなんです。本のなかで松方さんは、モデルの癖をいかに盗むか、それをどんなふうに虚構の役を演じるときにデフォルメするかを語っています。「身体を揺らす」ということ一つをとってみても、アサヤマさんがおっしゃったように、敵味方によって揺れ具合を変える。それに加えて、松方さんはある役を演じるとき、その人物のキャラクターによって右利きか左利きかを決めるんですね。
この映画のモデルは右利きなんですが、それを左利きに変えた。そして、左右に身体を揺らして、右から左に振ったときに、相手に斬りつける殺陣を考えたんですね。
「斬るときは右からこうやって、相手が左にいったときにこうするんだ。実際の演技には流れとリズムがあるんだ」と言うんです。松方さんはものすごく技術がある俳優なんです。
それに対し、相手役の高橋洋子さんも、松方さん(演じる主人公)が好きになり、ライバルでもある野川由美子さんに向かい合ったときに、身体を左右に揺らすんです。高橋さんに聞いたら、現場で思いついた芝居だと。こんなふうに親分の癖を松方さんが肉体化し、それに高橋さんが共振する。『北陸代理戦争』はこんな細部に満ち溢れている、すごく面白い映画なんです。
 
🌙本を読むまでは、松方さんに対して、ビートたけしさんのテレビ番組でひょうきんなキャラクターで出ていた印象がつよく、あまり興味をもってはいなかったんですが。伊藤さんの本を読むと「語り」がすごく魅力的なんですね。役作りのエピソードで、まつ毛に白粉を塗るという話をされていますよね。

『仁義なき戦い 頂上作戦』(深作欣二監督・1974年)で松方さんが肺を患っているヤクザを演じたときに、目に力がない、目に鋭さが出ないようにと、黒いまつ毛を白いドーランで一本、一本潰して、目に生気をなくしたんです。その人が殺される場面では、目を血走って見せるために、下のまつ毛の際のところに紅を差し、しゃべるたびに目を充血させた。
松方さんが歌舞伎の隈取りを勉強して、メイクに応用したんですね。
また、年上の高倉健さんや鶴田浩二さんと張り合うために、シワをつくろうと、半分顔に冷水をつけて、半分はお湯につけるということを何か月か繰り返したと言っています。そうすると、顔にシワができるらしいんです。
とにかくメイクで「ちがう自分をつくるんだ」という意識がとてもつよいひとでしたよね。

🌙伊藤さんのインタビューが面白いのは、松方さんがそういう役作りの話とか具体的なことを語られていていることです。

映画に関わるインタビューは、抽象論ではなく、具体的な芸談を引き出さなければならないんですよ。

🌙精神論ではなくてね。それで、どうして松方さんはそこまでして自分をつくりかえることに没頭するのかを考えながら読んでいたんですが、それはコンプレックスがなせることだったのかなぁと想像したんですね。
高倉健、菅原文太に「遅れてきた」という意識がそうさせるのか。高倉健であれば、高倉健のママでいればいいのに対して、まつ毛まで工夫してキャラクターを色濃く出そうとする。そうしないと自分は役者として上にいけないというのがあったのでしょうか。

まさしくその通りですね。映画の斜陽期に役者になった松方さんは、全盛期に脚光を浴びたスターのような「華」がない。「素」のままで魅力を出すことは難しいと考えていたんですね。
たとえば『日本の首領 野望篇』(中島貞夫監督・1978年)で、佐分利信さん演ずる親分がいて、松方さんは傍らにいる東大出のインテリヤクザを演じます。佐分利信さんは戦前からの松竹の大スターで、小芝居などせず、どーんと立っているだけ。松方さんは、そんな存在感は自分には出せないと思い、能面のような表情を作ったり、縦縞のスーツを着たり、佐分利信との対比で自分の役をつくっていく。
「スターじゃなく役者だ」という意識は、映画の全盛期、戦後的な肉体の黄金時代に遅れてきた俳優すべてに共通する認識だと思います。北大路欣也さんにしても、存在感としては鶴田浩二、高倉健には太刀打ちできないので「劇団四季」に入ったり、テレビに活路を見出そうとしました。

🌙なるほど。

ただ、松方さんが特異なのは、遅れてきた世代の俳優であるいっぽう、ご両親が大衆演劇で全国を回った近衛十四郎と水川八重子で、松方さんは幼いころから、地方の劇場の袖で、舞台に立つ両親の姿をじっと観ていた。そうやって芝居というものを肌身にしみこませて育った、稀有な生い立ちをもっている役者なんですね。
出演作の場面を見てもらってインタビューしたんですが、松方さんは画面を観ているうちに身体が反応する。
「刀を抜くときはこうやって腰をこう……」と身振り手振りを交えながら実際に僕の目の前で披露するんです。すごい! と思いながら、この身振りは文章にできない(笑)。
「言葉で説明してもらうとどうなりますか?」と訊くんだけど、「ああ、だからこうやって、こうやってやるんだ。ほら速く見えるだろう」と実際に立ち回りをやってみせる。その所作は僕には書けない。映像に撮っておかないと伝えられないんですね。

🌙伊藤さんはもしかして、松方さんの作品を全作見直されてインタビューにのぞまれています?

いや、200本近い出演作があって、観られるものは8割くらいですから。全部ではないです。だけども観られるものは、ひと通りは。それでとくに語ってもらいところを、編集者のひとにお願いして「この作品はプライムビデオで何分から何分までを頭出ししてください」とやってもらいました。

🌙そうなんですか。

松方さんには3日間、合計21時間もらえたので、まだよかったんですが。『仁義なきヤクザ映画史』のなかの小林旭さんのインタビューは1時間20分と限られていたので、編集者の方に映像のその場面の頭出しを準備してもらい、頭出しをスムーズに行なうために、あらかじめ小林さんとの質疑応答の台本をつくっておいたんですね。

🌙インタビューの想定台本ですか?

そうです。想定問答をもとに、僕がこの映画のことを聞いたら、この画像が出るように準備しておいてくださいとお願いして。前日に何回も編集者と二人でリハーサルを繰り返すわけです。

🌙リハーサルを?

ええ。だけど、実際のインタビューでは、当然のことながら、小林旭さんは台本通りにしゃべらない。話があっちへ行ったり、こっちへ飛んだりする。そのたびに編集者はあわててその作品を探す。
「さすが天下の小林旭」と思ったのは、編集者がバタバタしているのを見て、画面が出るまで話をつないで待って下さるんです。画面が出ると、悠揚として、「ああ、じゃあ、『仁義なき戦い』の話をしてもいいかな」と。パソコンを操作しながらやっているものだから現場はおおわらわでした。

🌙なるほど。ようやく謎がとけました。本を読んでいて、どうやって「この場面は」と映画を一緒に観ながらインタビューできるのだろうと思っていたので。

ひとりでインタビューするときには、聞きたい場面の写真を見せ、台本のセリフを読み上げながら聞きます。編集者がいるときには、パソコンで映像を再生します。
あと、事前に準備する資料は、国立アーカイブの図書室に映画の本が揃っているので、司書の方に本を出してもらって読むんです。たとえば小林さんの自伝が2冊出ていますが、事実と明らかに違うことが混じっているんですね。

🌙それを伊藤さんはひとつひとつ確認されている?

もちろん確認していきます。人の記憶は曖昧なものですから。当時のスチール写真や実際の画面を見てもらうか、台本を読み上げたりしないと、役者の記憶は発動しないんですよ。

🌙なるほど。

たとえば『仁義なき戦い 頂上作戦』の最後の場面。裁判所の廊下で窓から雪が吹き込んでくる。素足に雪駄で足をかじかませた菅原文太と小林旭が名セリフの応酬をするんですが、その場面を小林さんに見てもらい、「これ、かじかんでいる足がアップになっていますね」と訊く。
「ああ、これは俺が考えたんだよ。そうすると、深作監督が窓から雪を振り込ませてくれと美術に言ったんだ」という逸話が出てくる。ただし、実際に深作監督がそう言ったのかどうか。深作さんも美術のひとも亡くなられているからわかりませんけど、小林旭さんがこの画面に強く反応したことは間違いがない。
 
🌙その場面はわたしも本に書かれているのが気になり、注意して見ました。それで、なんで冬にわざわざ雪駄なんだろうかと不思議な気もしたんですが、印象に残る場面です。これから刑に服する男たちの悲哀も漂っていて。
それで伊藤さんはこの場面について聞くにあたって、小林さんからこういう話が出てくるだろうという読みが?


わざわざ裸足の寄りを撮ったところに監督の意図があるはずですし、アップで映るのは小林さんのかじかむ足なので、寒さをどう表現しようと考えたんだろうと。いままで、そのシーンについて小林さんが話されたものはなかったんですよね。

🌙このシーンに目をとめられたのは、伊藤さんのこだわりですか?

僕のこだわりというより、小林さんがこだわったのではないかと。一本の映画の中で役者がこだわった芝居はだいたい見当がつきます。たとえば、小林さんは『仁義なき戦い 頂上作戦』では終始サングラスをかけている。それはなぜなのか。サングラスを外すタイミングをどう決めたのか。それと、広島ヤクザの衣裳を神戸のヤクザのそれとどう違えたのか。あとは、あの足でクライマックスのシーンをどう表現しょうとしたのか。そこは役作りのうえですごく大事なことだと思い、実際の画面を見てもらおうと。

🌙なるほど。伊藤さんはいつもそういうふうに準備をされて取材されているんですか?

常にではないですが。インタビューを何十回、何百回と受けている人は答えもルーティン化しているじゃないですか。その人からいままでにない言葉を引き出すには、画を見せるか、いままで誰もしたことのない質問をぶつけるかしかないですよね。それには当然、用意が要ります。
いっぽう、役者ではなく、『無冠の男』で取材したメイクや殺陣師や衣装の方には「素人ですから一から教えてください」とお願いするんです。
『仁義なきヤクザ映画史』も、ヤクザ映画をつくった人たちだけでなく、ヤクザ映画に翻弄されたヤクザの人たちにも、そのヤクザを弁護した弁護士にも、国定村に行って忠治の研究をしている大学教授にも、『天保水滸伝』を唸っている浪曲師の方にも話を聞いています。
歴史と人が交わる厚みのなかでヤクザ映画を描きたかったんですね。松方さんの本も、ふだんは日が当たらない、けれど間違いなく「松方弘樹」を形づくった人たちの証言をきちんと残しておこうと思いました。

🌙なるほど。松方さんの本ですごいのは「自伝」でありながら周辺取材を丁寧にされ「評伝」的な構成に近いものになっていることです。要した時間はどれぐらいでしたっけ?

松方さんの取材は延べ21時間です。

🌙それ自体は多いにしても驚くほどではないですが、インタビューを終えてから本が出るまで2年ですか?

1年2か月ですね。インタビューが終わったのが、2015年12月22日。打ち上げをかねて松方さんが「もうすぐクリスマスだから、パッーといこうか」と僕と編集者をステーキ屋につれていって下さった。
「俺は医者に言われて酒をやめているから」と言いながら、サーロインステーキを5キロと白ワインを2本注文したんです。「いいんですか、お酒」と訊くと、「ワインは水だ」(笑)。
その2か月後、松方さんは脳リンパ腫というがんで倒れ、その治療中に脳梗塞に見舞われるんです。インタビューの時期にすでに病状が進行していたのかもしれません。松方さんの病状がわかった段階で、本は松方さんとの共著なので、ご本人のゲラ確認ができないのであれば出版できないと思いました。テープ起こしをしたものを病院にお送りしたんですが、見られる状態じゃないと。
ところが、3月のある晩、ゲラに赤(修正)が入った原稿が何十枚も講談社の編集部にFAXで流れてきたんです。とても美しい字で、インタビューでは語られてなかったことがびっしり書きこんでありました。
過酷な治療の合間に、松方さんが病床で傍らの奥さんに口述筆記で書きとらせたんですね。それがあったから本が出せたんです。その日以降、コピーをお守りにしようと壁に貼って、それを見ながら仕事をしました。

🌙なるほど。そこから拙速に刊行するということをされなかったのが、すごいなあと思いました。本が完成するのは、松方さんが亡くなられた少しあとだった。急げば生前にご本人に見せることもできたかもしれないというのと、しかしこれだけ周辺の取材を重ねて丁寧な造りにされたことで、たとえ手にすることはできずとも喜ばれただろうとも思いました。メイクのひとが、松方さんは自分でまつ毛の工夫をされていたというのを話されるなど「評伝」の要素の多い本になっているので。
それを考えると時間はかかるなあというのと、なおさら本人は読みたかっただろうなあというのと。それで読んでいくうち、松方弘樹に惹かれていきました。


ヤクザ映画にも、松方弘樹にもまったく興味がなかったアサヤマさんにそう言っていただけるとうれしいんですが、本の完成が遅れたのは別の理由なんです。
メイクや衣装や殺陣師にインタビューをしながら、じつは松方さんのカムバックを待っていたんです。松方さんは抗がん剤治療が効を奏して、秋にはNHKの「ファミリーヒストリー」に出演できるかもしれないというところまで回復したんですよ。収録直前にドクターストップがかかったんですが、僕は松方さんが記者会見を行い、映画の現場に立てると信じていました。
ただし、復帰されても脳梗塞のダメージは残りますから以前のような殺陣はできない。松方さんは病床で、座ったまま片手でやれる立ち回りとかを考えていました。東大病院の病室から屋上までの階段を上り下りし、リハビリにつとめていた。
そういう状況を聞いていたので、松方弘樹の復帰を最終章にしようとして、心を弾ませ、下書きしていたんです。ところが、2017年1月にふたたび脳梗塞が発症し、容態が急変し、ふいに亡くなられるんですね。それで書きたかった最終章を書けないまま出版したんです。

🌙そういうことでしたか。事情はわかりました。

最終章をあらかじめ決めてとりかかっても、予定通りにはいかないものですよね。『最後の角川春樹』(毎日新聞出版)も、角川春樹さんが監督した『みをつくし料理帖』(2022年)がヒットし、角川が復活する大団円を考えたんですが、そうはならなかった……。
担当編集者が「まあ、ありのままを書けばいいじゃないですか」というんですけど、伝記を失敗で終わらせていいのものか、と悩みました。

🌙いま話に出た角川春樹さんの本ですが、この取材の機会がなかったら読まなかったと思うんですが、角川春樹さんの印象がすごく変わりました。まず考えて、考えて映画をつくられていることに驚きました。角川さんのインタビューの際も、小林旭さんのようにビデオを用意したりとかされたんですか?

いや、角川さんは周到に準備をされるんです。次回の取材はこの映画とこの映画をとりあげますというと、取材の朝には、社長室の机の上に資料がずらっと並んでいる。僕ももちろん調べていくんですが、角川さんが部下に命じて、会社にある資料や図書館にいって集めた資料が並んでいる。僕が読んでないものがそこにはたくさんあって、それを全部もらって、その資料についての質問は次の回に聞くんです。僕と角川さんが資料をぶつけ合って本をつくっていきました。
そんなふうに角川さんは誠実で、答えもきわめて論理的な方ですが、オカルティックな一面もある。たとえば、「先週、京都の鞍馬寺と貴船神社に行って宿に泊ったら、夜、外が騒がしいんだ。窓を開けると、中庭で「小天狗」が宴会をひらいていて、酒を飲んで騒いでいるものだから、「おーい、風邪ひくんじゃないぞ」と言ったんだ」と真顔でおっしゃる。小天狗とは天狗の子供のことです。

🌙小天狗が宴会ですか?

ええ。僕はインタビュアーなので神妙に聞いているんですが、一緒にいた編集者は吹き出すのを懸命にこらえている。すると角川さんは編集者をジロッと睨み、「小天狗が五匹いてね!」と強い調子で言い直すんです。

🌙言い直される(笑)

それで、角川さんは小天狗たちが寒そうに思えたから「俺は翌々週に鞍馬寺にまた行って、小天狗が着るように甚兵衛羽織を奉納した」と言うんですよね。
で、これは鞍馬寺に一度行って、角川春樹がこれこれの日に甚兵衛羽織を奉納したのかどうか調べないといけないな、と思ったんです。

🌙それで調べた?

調べました。たしかに奉納されていました。寺務所で台帳を見せてもらうと、「角川春樹 奉納 五着」と書いてあるんです。角川さんは気持ちを行動に移されるんですよね。奉納した甚兵衛が小天狗にわたったかどうかはわかりませんけど。

🌙その話をうかがっていて、角川さんに驚くとともに、わざわざ調べに足を運ぶ伊藤さんにも驚いています。

小天狗が本当にいたかどうかは僕には確かめようがないんです。けれど、甚兵衛羽織を奉納したかどうかは確かめられます。「角川春樹伝」を書くからには、それは確かめておかないといけないことですよね。「伊藤、お前も変わっているよ」と言われたら、そうなんでしょうけど。

🌙なるほど。わかりました。その流れでいうと、冒頭、角川さんの出身地である富山に取材に行かれていますが。

基本、取材する人の生まれ故郷には行くようにしています。角川さんの故郷は富山県の水橋という小さな海沿いの町ですが、歩いていると「米騒動発祥の地」の碑文があった。
そういえば、角川さんのお祖父さんは米問屋だったなあと思い返して、であれば、当時襲われたんだろうか。そこで地元の図書館に行くわけです。水橋の郷土史家の方に聞いて、どこの米屋が襲われたのかを調べようと。結果、駅前にあったにもかかわらず、角川米店だけは襲われなかったと地元の研究者の方の本に書いてあった。それはなぜだろうと思い、角川さんにぶつけるわけです。
角川さんが言うには、角川さんのお祖父さんは養子で肩身の狭い思いをしてきたので、自分が商いをするときには「身分や素性で人を計ってはいけない」と被差別部落の人にも同等に接していた。最初は天秤棒を担いで魚の行商をやっていて、山の方にいったときに、売れ残った魚をぜんぶ部落の人が買ってくれた恩義もあった、と角川さんが話した。
祖父は差別された人たちも分け隔てなく雇ったので、町では「生き仏」と呼ばれ、米騒動のときも角川商店だけが襲われなかったと。この証言は、角川さんがその後、日本社会の影の部分にもふれる民俗学的なミステリーを手がけていくことにつながるんじゃないかと思ったんです。

🌙なるほど。

角川春樹さんの起点は、ここにあったのではないかというので本人にぶつけたんです。

🌙不勉強で申し訳ないですが、その米騒動にまつわる話は、角川さんが初めて語る話になるんでしょうか?

切れ切れに話をされているんですが、きちんとお話になったのは初めてだと思います。ただ、お祖父さんが行商に行かれたルートをたどろうと、三日かけて水橋で調査したんですが、それは掴めなかった。水橋の漁港から山の方に歩きながら、この辺りだろうかと見当はついたんですが。

🌙調べ尽くすということでいうと、伊藤さんの質問に、角川さんが「よく調べているねえ」と驚かれる場面が何度かありましたが。一例が、角川文庫に挟んだ紙の栞。映画の割引券にもなっていて、タイアップCMのアイドルと商品名をあげて訊かれています。

薬師丸ひろ子の資生堂の広告、原田知世の東芝の広告が角川文庫の栞にあったんですね。ちょうど資生堂のCMに薬師丸が、東芝のラジカセのCMに原田知世が起用されていたのでタイアップしたんですね。

🌙それは伊藤さんが調べてきたものを角川さんに見せたということですか?

同時代に角川文庫を読んでいたときに、あの広告があったのは覚えていましたから。それで国会図書館に行って確かめたんですね。
横溝正史や中上健次の文庫を買ったりすると薬師丸ひろ子の栞が挟んであったなぁと、同時代の人なら、うっすら記憶しておられると思います。

🌙そうですね。でも、いま国会図書館で調べられたといわれましたが、細かいところをしっかり確認されているなぁと驚きました。ひとがインタビューにこころをひらいていくというのは、そういう細かなことの積み重ねだと思いました。

それもあったでしょうけれど、角川春樹さんは書店の経営者なので、出資してもらった企業の広告のことはきっと覚えているだろうと思ったんです。栞ひとつとっても企業とタイアップし、角川書店の収益になったはずですから。

🌙なるほど。80分を経過したので、ここですこし休憩をいれましょうか。

ここで一度休憩に入ります

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