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【保存版】インタビュー田原町02『ジュリーがいた』の島﨑今日子さんに聞きました


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8月6日(日曜)、浅草・Readin’Writin’ BOOK STOREにて。
『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』(文藝春秋刊)の著者で、ノンフィクションライターの島﨑今日子さんをゲストに招き、公開インタビューの2回目を行いました(第1回は『芝浦屠場千夜一夜』の山脇史子さん)。質疑を合わせ2時間10分のまとめレポートを作成、当日聞きそびれた補足を加筆しています。総文字数は20000字。多くの人に『ジュリーがいた』を知っていただきたく、1万文字(1/2)まで無料で読むことができます。
※尚無断転載は固くお断りします。
話し手=島﨑今日子
しまざき・きょうこ/1954年、京都市生まれ。ノンフィクションライター。代表作に『安井かずみがいた時代』(集英社文庫)、『森瑤子の帽子』(幻冬舎文庫)。前著は、作詞家の安井と夫で音楽家の加藤和彦。後著は、小説家の森と夫アイヴァン・ブラッキン。ともに主人公たちがなくなった後、傍らにいたひとたちの証言によって多角的にその夫婦像を綴った長編評伝。ほかにAERAの「現代の肖像」で書いた人物ノンフィクションを編んだ『だからここにいる 自分を生きる女たち 自分を生きる女たち』(幻冬舎文庫・安藤サクラ、上野千鶴子、重信房子ほか12人)などがある。とくに『安井かずみがいた』には「ジュリー」を書くにあたって活かされた証言が含まれている。

聞き手・構成=朝山実
あさやま・じつ/1956年、兵庫県生まれ。ルポライター。フリーランスの編集者。
配信画像©️Readin’Writin’ BOOK STORE
illustration©️haniho_kum

当日来られたお客さんは会場定員の15名。うち男性は3人だったか4人だったか。圧倒的に女性が多く、日曜の夜に足を運ばれた「ジュリーファン」の熱気を感じました。開始前に訊ねると本書の既読率も高く、エアコンがよく効いていたため島﨑さんは上着を肩に羽織り「緊張するわぁ」身体をもぞもぞ、聞き手のわたしも「そうやねえ」とはじめました。

【ちょっと前置き・インタビュー田原町について】

※ここから【はじめます】までしばらく飛ばし読みしてもらっても大丈夫です。

「インタビュー田原町」は、週刊朝日の「週刊図書館」で30年間、著者インタビューを務めてきたフリーライターの朝山実が、雑誌休刊で「毎日が日曜日」とぼやいていたおり、出先の本屋さんで面白そうな本を見つけはしたけどアウトプットできそうもない。ふと以前、安田浩一&金井真紀『戦争とバスタオル』(亜紀書房)の刊行記念イベントを観覧したことのある、浅草の本屋さん「Readin’Writin’ BOOK STORE」を思い出し「突然ですが『芝浦屠場千夜一夜』という面白いノンフィクションがあるんです。著者の公開インタビューをさせてもらえませんか?」とDMを送ったところ(話したこともないのに)、快諾いただけたのが始まりです。
一回きりのはずが、店主の落合さんから「週刊朝日の後、月刊田原町はどうでしょう?」と、思わぬお誘いいただきました。ちなみに「田原町」はReadin’Writin’ BOOK STOREまで徒歩2分の最寄り駅の名前です。

スミマセン、前置き、もうあと少し

どうして今回のゲストに島﨑さんを選んだのか?  わたし(アサヤマ)が上京し、ライターに転職した1990年代のはじめ、島﨑さんはAERAの「現代の肖像」などの人物ルポをバリバリ書かれていて、取材力と文体の簡潔さに目標にしたものでした。その後どこでお会いしたのか記憶はあいまいですが、島﨑さんには二度助けてもらったことがあります。
20年くらい前。編集者とうまくいかず仕事じまいしょうかとふさいでいたときに新たな媒体の編集者を紹介してもらい、命脈をつなぐことができたこと。もうひとつは、帰省のたびに通っていた大阪・阿倍野の路地の喫茶店のママさんがタクシーに当て逃げされ、病院通いの補償交渉で「年寄りの女ひとりというので、なめられて……」と悲嘆にくれててと電話をすると、「わかった。知り合いの弁護士さんに電話するから」とテキパキ対応をしてくれ、とくに友人というのでもないのに、カッコエエなあと思いました。
そんなこともあり、週刊文春で「ジュリーがいた」の連載を目にしたとき(調べなおしたら2021年7/15号)本にまとまったら著者インタビューしたいと思っていたのです。が、仕事場だった週刊朝日が創刊100年で幕を閉じてしまったという次第。インタビュー田原町の相談をすると「私もひと前で話すのは苦手だけど、まあ、アサヤマさんだったら」と。
そうなんです。通常の著者インタビューは一対一か、編集者、カメラマンがいるくらい。インタビュー田原町の場合、ギャラリーを前にして話すぶん、事情がかなり違ってくるんですね。

とにかく週刊文春の連載をはじめて読んだとき、血管がジョボジョボと沸き立ったんですよね。
ジュリー、沢田研二のことを書いたスターの評伝だろうと読んでいくと、1967年の10.8羽田闘争(京都大学の1回生だった山﨑博昭さんがベトナム反戦闘争の渦中で亡くなった)のことが語られている。
折しも『きみが死んだあとで』という、山崎さんの高校の同級生たちの証言をつないだドキュメンタリー映画を撮った代島治彦監督の同名ノンフィクション(晶文社刊)を編集し終わったときでもあり、文字を追い高揚したのを覚えています。ジュリーがいたザ・タイガースと、ベトナム反戦のうねりを同じ地平で描いた芸能評伝というのは、わたしは見たことがなかったですから。
しかも取材のディテールが徹底している。一例は、71年1月24日、東京・武道館でタイガースの解散コンサートが開催された「その日」、ちかくの九段会館ではある政治集会が行われていた。
渡辺プロに内定が決まっていたひとりの大学生が駅を降りたまたま受け取ったビラを手に九段会館に。その後、武道館へ。ふたつの会場に足を運んでいた(小説でもあるまいに)という証言を、ジュリーの取材をするなかで得て様子を綴っている。
さらに。当時、医療刑務所に収容されていた重信房子(島﨑さんは「婦人公論」誌で重信の評伝を連載したことがある)に手紙を出し、九段会館の集会が翌年、あさま山荘事件をひきおこすことになる「連合赤軍の結成集会」だったことを確認している。「ジュリー」から外れた脇道にもかかわらず、調べずにいられない徹底ぶりに呆れ、驚かされました。


(右)島﨑今日子さん

【はじまります。『ジュリーがいた』インタビュー本文】


聞き手🌖『ジュリーがいた』が本になってみて驚いたことがあるんです。途中で予感はしてきたけれども、肝心のジュリー本人が、もう読めども読めども出てこない。ベケットの『ゴドーを待ちながら』のようだなあと。

島﨑 (以下略)    週刊文春で連載することが決まってから、4年かけて本にたどりつくんですけど。でも、最初の1年くらいはまったく取材ができなくて、「もうやめよう」と思ったこともあったんです。還暦を期にジュリーはもう取材は受けないと言ったんですね。

🌖それで『土を喰らう十二カ月』(中江裕司監督・2022年)の際にも、沢田さんが主演の映画であるにもかかわらず、舞台挨拶も含めプロモーションに関わらなかったんですね。

そう。だから、週刊文春の連載も本人のインタビューは難しいというのはわかったうえでスタートしたものの、近しいひとたちの取材もなかなか難しくて。

🌖ジュリーを書きたいというライターは何人もいたと思うんです。ただ、本人のインタビューが取れないとわかったうえで本にしようと走り出したのは、島﨑さんひとり。しかも『ジュリーがいた』が島﨑さんにとって画期的だったのは、これまで人物ノンフィクションを書きつづけてきたキャリアの中で対象は「女」に絞ってきた。その島﨑さんが、ほぼ初めて書く「男」だということ。ほぼ、というのは、ひとりだけ「現代の肖像」で坂東玉三郎を書かれている。

初めて、と言ってもらってもいいんですけど。玉三郎さんは女形で、いわばジェンダーは女だから。「女」に絞ってきたのは、私がAERAで人物ノンフィクションを書きだした90年代のはじめには、女のひとを書く男のライターも、男を書く女性ライターもイッパイいた。だけど、女が女を書くというのは少なかった。それに私は「女の人生」に関心があったし。

🌖それはライターとして、特色を出そうと戦略的に考えて?

いや、そういうんじゃなくて。純粋に興味ですよね。自分は女だから。私は「男の人生」に興味はないというか、女である自分がどう生きていくのかを踏まえながら書きたいんですよ。

🌖それで今回、唯一の例外がジュリーだったのは?

そう。それですよね……。この本が出てから「何でジュリーだったんですか?」と何度も聞かれ、その度いろいろ答えはしてきたけれど……。正直「ジュリーだから書いた」としか言えない。

🌖ジュリーだから、ですか。
連載を始める準備段階の1年半くらいはジュリーの生まれ育った京都の「証言」を得ようと、島﨑さんも京都出身ということもあり、友人縁故を手繰ってひと探しをされたけれど、ジュリー本人や所属事務所の協力がない。というか「お断り」されていることもあり、なかなか捗(はかど)らなかったなかったとか。

じつは本には登場しないんですが、ジュリーと中学の同級生だった大信田礼子さんにも話を聞いているんです。彼女は確か高校も同じ。ただ、どう頑張っても周辺の証言が集まらず、どこかで大信田さんの話を出そうとは考えたんですが、彼女ひとりの話に頼ってはいけない。それで、最終的に生い立ちのところを書くのはあきらめたんです。せっかく時間を割いてもらって申し訳なかったんですけど、迷ったあげく入れなかったんです。

🌖本の帯に「69人の証言」と記されていますが、大信田さんはこの中には入ってない?

入ってないです。入れられなかったということでは、先日亡くなられたPANTA(「頭脳警察」)さんもそう。ジュリーに「月の刃」という楽曲を提供しているので(91年発売のアルバム「パノラマ」に収録)話を聞きに行ったんですが、ジュリー個人の逸話として書ける話を引き出せなかった。どうにか入れたいとは思ったんですけど。
それで取材がようやく動きだしたのは、私の大阪の友人で渡辺プロのOGに相談したんです。彼女がいろいろ助けてくれてからですよね。それまでの1年半は、もうやめようと何度思ったことか。その間『愛の不時着』(韓国の連続TVドラマ。ヒョンビン主演)を10周くらい観ては、どうしょう。どうしたらいいんやろうって……。

🌖そうなんだ。

ちょうど今日、観に来ていただいている(二階席を見上げる)、神藏美子(写真家)さんと神楽坂の喫茶店でお茶しながら「もうジュリーを書くの、もうやめようと思っている」と話したら、彼女が「やめたらダメよ、絶対」と言ってくれたんですよね。

🌖「第1章 沢田研二を愛した男たち」の中の、内田裕也を語るエピソードで、白夜書房におられた末井昭さん(神藏さんの夫)が自分の本を編集してくれたという縁で、内田さんが亡くなられるまで毎年、直筆の熨斗(のし)をつけて御歳暮を贈っていたという話が出てきます。あの逸話は内田裕也のイメージを裏切るもので、いいですよね。

そうなんです。内田裕也といえばスキャンダラスなイメージがついてまわるけど、じつは優れたプロデューサー、音楽家なんですよね。それで、『俺は最低な奴さ』という本を末井さんが作ってくれたからという。あのときは神蔵さんに、内田裕也の本がめちゃくちゃ面白くて、と話していたんです。
ジュリーを語る言葉がどれも本当にサイコーなんですよ。そうしたら神藏さんがあの話をしてくれた。それで内田裕也について書くときに「あの話、使っていいかなあ」と神藏さんに訊いた記憶があります。

🌖あと、久世光彦さんの話も面白いですよね。久世さんがもう亡くなられているので、妻の久世朋子さんが話されている。内田裕也と樹木希林とが激しい夫婦喧嘩をするたび、仲裁に駆り出されるのは久世さんで「どうして沢田は呼ばれないんだ」とぼやいていた。三者の関係がわかるエピソードで。

そうそう。それは内田裕也と樹木希林の結婚立会人が、かまやつひろしさん。内田さん側がジュリーで、樹木さん側が久世さんだった。ふたりは警察が来るくらいの喧嘩をして、久世さんが呼ばれていた。「自分が呼ばれて沢田が呼ばれないのは不公平だ」と言っていたという。だけど、まあ、ジュリーを呼ぶわけにはいかないんですよね。

🌖そういうちょっとしたエピソードから、久世さんの人となりも見えてきますよね。
それで、どうして周囲の人たちがこんなにジュリーについて語るという構成を島﨑さんがとっていったのか。前に書かれた『安井かずみがいた時代』など長編二作を読み返したんです。あとAERAで中島みゆきを「現代の肖像」で書かれていましたよね(掲載は2005年1/5号)。
あの企画は本人のインタビューを中心に構成するのが必須。だけど、中島みゆきは取材に応じないまま終わるという。おそらく島﨑さんが書かれたその回以外、何百回と続いてる中で当人が登場しない回はないと思うんです。尚且つ、写真に力をいれた誌面なのに本人写真を掲載できないという異例づくし。
そうしたハンディを背負いながら、孤高で負けん気のつよい中島みゆきの根っこを描かれていて読み物として面白かった。本人が取材に応じなくとも書くということでは、このときの経験が自信になったりしていませんか?

……自信にはなってないですけど。中島みゆきのときも、彼女のマネージャーに書かせてほしいと言い続けていたんですよね。ただ「現代の肖像」は、いっさい原稿チェックなしでやっていたこともあって、なかなかokが出なくて。当時担当だった編集者の大和久さんから「もう10年待ったんだから」ということで、本人に話を聞かないで書くということになったんです。おかげで、もう中島みゆきのライブには一切呼ばれなくなりましたけれど(笑)。

🌖後悔している?

いえ、ぜんぜん。書けてよかった。私が書きたいと思ったことは書けましたから。

🌖呼ばれなくなったというのは事務所として、記事に不満だったということだったんだろうか?

というよりも、ケジメなんだと思います。許可していないという。だからといって、何か言われたわけではないですし。ただ、その中にも書きましたが、「こういう取材をしていたら音楽業界では生きていけないよ」みたいなことを言う人はいましたよね。

🌖書かれていましたね。

ただ、私は幸いなことに音楽ライターではないから。雑多なことを書く人間なので。そこで締め出されても、こっちで書けばいいわと。私は「女ジャンル」でやっているから、かまいませんって。だけど、チケットを取るのは苦労しています。

🌖以降もコンサートは観つづけている?

もちろん。私は好きじゃないひとを書いたことないですから。なかには、書いたあとでそうじゃなくなったということはなくはないですけど。だから『ジュリーがいた』でショーケン(萩原健一)のことを書いていたときも気持ちが入りこんでしまって、ずっとショーケン、ショーケンになってしまって。

🌖たしかに、ショーケンについて書いている「第4章 たった一人のライバル」のあの章は明らかにおかしかったですよね。

ヤッパリ(笑)。あれは「ショーケンがいた」だと、ひとに言われました。ずっとショーケンの映画を見て、『傷だらけの天使』を見て。ショーケンのグラビアを見て。本の中にも出てくる私の友達でショーケンファンからずっと話を聞いて。

🌖ジュリーは頭からとんでしまった?

いや。そんなことないです。ジュリーがショーケンのことをすごい好きだというのはわかっていましたから。それにちょっとシンクロするというのかなあ。どうしてショーケンのことを好きなのかということが掴めてきたという感じかなあ。だから、ジュリーがショーケンを好きな理由を代弁して書いているかんじ。でも、たしかにおかしくなっていますよね。

🌖まあ、おかしいですよね。それ以前の内田裕也、久世光彦まではジュリーを語る上での対比として書いているというのがわかるんですが。

バランスが崩れてしまっている?

🌖そういう歪さも含めて、沢田研二を中心とした物語でありながら、本人が出てこないがゆえに、ショーケンや内田裕也が前にせり出してくる。文が弾み、入れ替わり立ち代わり「中心」が変わる群像劇のようになっていく話なのだと理解して読みました。
それでショーケンの話もそうなんですが、『ジュリーがいた』がこれまでの人物評伝のセオリーから外れた感があるのは、コアなジュリーファンの人たちを訪ね歩き、話を聞いていく(第2章 熱狂のザ・タイガース)。
市井のひとに混じり、〈うどんすきで知られる「美々卯」の専務〉をはじめ、何人もの女性たちがGS(グループ・サウンズ)に夢中になっていた当時を語りだす。まだ女は男の後をついていくものだとされていた昭和の時代に彼女たちがどんな青春を送り、どんな思いを託してスターの追っかけをしているのかがわかります。
なかでも面白いのは、ジュリーに関する資料すべてを目にしたい島﨑さんにしてみれば、垂涎もの。中古市場で10万円もするジュリーの写真集なども「どうぞ、全部持っていってください」とごっそり貸し出してくれたファンとのやりとり。それらをあわせて「時代史」が浮かびあがる構成になっている。これはスターと時を共にした人たちの「時代の本」を書こうとしているのだなと思いました。

ありがとうございます。連載がスタートするときに、それまで「評伝」として書こうと考えていたのをぜんぶ捨て、ジュリーを起点においていろんな文化、ファンの女の人の生き方、団塊の世代論、当時の音楽、ファッションを切り口に、ジュリーをネックレスの糸のようにしてつないでいく。パーツごとに選り分けて書いていく仕方なら書けるのではないか。週刊文春の加藤(晃彦)編集長に相談したら、それでもいいと言ってもらって。それで連載の最初に書いたのが「沢田研二を愛した男たち」だったんですね。
私は、これはBL(ボーイズ・ラブ)だと思って「沢田研二とBL」というタイトルで出したんですが、唯一そこは「沢田研二を愛した男たち」と加藤さんに書き換えられました。たしかに雑誌の読者には「BL?」というのはあったでしょうから。
それで、あのときは、「もうこれしか書けません。これでカンニンしてください」と謝ろうと思って書いたんです。

🌖短期連載で、逃げ切ろうと?

でもね、一本書き上げたら「これは書けるわ」と変わったんです(笑)。
ええ。それまでさんざん資料を読んできていたのもあって。ジュリーを愛した内田裕也を書き、久世光彦を書きして、「これは書ける。なんぼでも書けるわあ!!」となっていったんです。

🌖(笑)

 【島﨑さんはAERAなどで人物ノンフィクションを数多く書いてきた。作品は読んではきたものの、どのようにしてライターの仕事に就いたのか詳しくは知らずにきたので、インタビュー前に読み返した『この国で女であるということ』(ちくま文庫・桃井かおり、中島みゆき、大竹しのぶなど20人を書いた人物ノンフィクション集)の解説で、小倉千加子さん(当日、参観されていた)が島崎さんの生い立ちについて、
〈島﨑は京都下京区に生まれた。彼女の父の実家は西本願寺と東本願寺の間にある神具商を営む旧家であった〉
と、その父娘、母娘関係のことなどを紹介している。
私事ながら小倉さんの解説を、島﨑今日子の背中越しに先年他界した勝気にして細やかな気遣いのひとだった、わが姉の輪郭を想い重ねながら読んだ。味わいのあるコラムである。
キャリアをたどると、島﨑今日子は22歳で大学(甲南大学で社会学を専攻)を卒業して就職、何度か転社はしたが「書く仕事」を続けてきたという。
テレビで見た女性記者をカッコイイと憧れ「小学校の卒業文集に、将来なりたいものをジャーナリストと書いている。当日彼女をインタビューするなかで、わたしがカッコイイと思ったのは、
「いま、68(歳)ですから」
さらっと彼女が年齢をクチにしたことだった。
ライターの仕事を46年、それも第一線で続けているのもすごいことだが、多くのライターはある年齢を境に生年をプロフィールから外しがちになる。他人がとやかくいうことではないが、ことノンフィクション、とくに人物ノンフィクションの書き手に限っていうと、対象者の生年、生育環境、人間関係も何もかもをさらしてしまう職分であれば自身の年齢を伏せては道理が合わない。
たとえば三島由紀夫が自決した日をどこで、何歳のときに見聞したのか。こうした記憶の積み重ねは書き手の精神を形成する要素だと考えている。もちろん伏せたくなる理由はわかる。だからさらりとトシを口にした彼女を思わず見返していた。】

 🌖そうそう。島﨑さんが最初に書かれた取材記事は、たしか中島らもさんが関西ローカルの雑誌で、ちくわとかまぼこの「かねてつ」の人気CMキャラクターを毒気のあるもの短編漫画にした連載を見て、インタビューしに行った。その経緯を、らもさんが亡くなられたあとの特集ムックに寄稿されていましたよね。
らもさんや彼が好んだ人との関りが見え、おかしくせつない。島﨑さんは硬質な文体の印象があるので、こういうコミカルな文体をもちあわせているのだと驚いた記憶があります。

らもちゃんのコピーライター時代に出会ったんです。あの広告は彼の手作りでしたが、それから広告誌で何度も取材したんですね。
その広告誌、原稿料が驚くほど安くて。あるとき、「この原稿、ひとます1円やねん。字と句読点の数だけ数えて、改行の余白はゼロやねん」と言うと、らもちゃんはクックックと笑って「まだいいよ。僕なんか原稿用紙のグラムで仕事してるよ」と。それから彼はすぐに『頭の中がカユいんだ』を出して、人気作家になっていきました。彼をはじめて取材したのは私だというのが自慢ですね。

🌖自慢なんや(笑)。
それでぼくは、この本を読むまではとくに沢田研二に関心があったわけではないんですが、今回、昔の「三億円事件の犯人」を演じたドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年放映・TBS・久世光彦プロデュース・演出)から最近の映画まで見直してみて、めっちゃうまい役者だなあと。ちょっとハマりかけている。

ハハハハ、そうでしょう。めっちゃ、いいんです。どうぞ、いっぱいハマってください!!

🌖それで『ジュリーがいた』が島﨑さんらしいのは、沢田研二本人の取材がかなわないがゆえに、歴代のマネージャーに話を聞いていって、彼らがどういうふうな仕事をしていたのか。それぞれの「語り」の中で見せている。これまで島﨑さんが書かれてきた作品もそういう書き方はされてはいますが、とくにマネージャーという裏方の人たちの「個」が浮き上がる感じでいいですよね。

あの当時の渡辺プロの人たちや、ジュリーの傍にいる人たちというのはすごい才能が集まっていたんですよね。これは偶然にして、必然だったと思いますけど。だから、その人たちひとりひとり、話を聞いたら面白いんですよ。スターのマネージャーというのは、どういう仕事をするものなのか。よくわからないものを教えてもらうわけですよね。
音楽プロデューサーの仕事って、どういうことをするものなのか。たとえば木崎賢治さんという方は、もともとは高校の英語教師になるつもりが、学生運動でキャンパスがロックアウトされ、教育実習も就職活動もろくにできず、一年バイトしたあと渡辺プロに入社し音楽プロデューサーになったという。そういう人生の変わり目に、ジュリーがいたというのが面白いなと思ったんですよね。

🌖印象深いといえば、ジュリーのバックバンドのオーデションを受けてメンバーになるひとが。

吉田建さんですよね。

🌖そう、吉田さん。バンドのリーダーだった井上堯之さんから、沢田研二と仕事をするにあたり、沢田はこんな人間だからと教えられるエピソードがいいんですよね。このとき井上さんは沢田さんから離れていく立場なのに、沢田のことを理解してほしいという心情も伝わってくる。

たとえば「今ここに封筒が百枚あって、『沢田、明日までに住所と名前書いて、切手貼っておいて』と言われると、あいつは『なんで?』とか問わないで、『はい』と言って、それを一生懸命百%、百二十%こなす、沢田はそういうやつなんだ」と話されたというところですよね。

🌖面白いのは、そういう小さな話をずっと吉田さんが覚えていたということ。吉田さんの人柄もわかる。

あのときは、吉田さんが井上堯之さんの会社に入って。当時は中井國二(「もうひとりのザ・タイガース」といわれた)さんというマネージャーもいて、この二人とどういうことをしゃべっていたのか。吉田さんは、中井さんとはほとんど事務的なやりとりしかなかったけれど、「堯之さんが言ったことは忘れられない」と、あの話になったんですよね。
井上堯之のウォーターという会社に中井國二がいた。つまり彼らは「ジュリー」をつくったひとたち。私が知りたかったのは、そこで吉田建さんが何を見て、聞いていたのかということなんです。

🌖なるほど。(会場の前列に座られていた担当編集者の内藤さんに向かって)この取材のときに内藤さんは同席されていて、吉田さんのこの発言は、原稿になる前に印象に残っていました?

内藤さん 「いつも、資料を集めてくるときにそうなんですけど、その資料がいつどのように活かされるのかというのは見えていないんですよね。毎回なんですけど。原稿になったときに、きれいにアウトプットされて出てくるんです。吉田さんの発言も、あったような気がするんですけど、こういう文脈で出てくるというのは予想していない。
ですから、この話がことさら印象に残ったわけではなくて、どちらかといと吉田さんの話では、「プロデューサーは数字を取れないと失格。僕はできればずっと傍にいたいけれど、数字が出せないかぎりはいられないんです」と降板について話された。そこはすごく印象に強かったんですね」(先のエピソードとは章を違えた341頁にその発言が綴られている)

あのとき、泣きはったからねぇ。吉田さん。

🌖取材で話されているときに?

内藤さん 「泣かれました」

🌖そうかあ。ヤボな質問ですけど、あの封筒の逸話を島﨑さんはどうして抜き書きされたんですか?

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