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心に刀を呑め🥷

最近言い訳の多いひとが増えたなと思っています。
SNSでひとを誹謗中傷しているひとが開示請求されてバレた時に
「イライラしていた」とか「ムカついたから」とか。

わからなくはない。そういうこともあるだろう。しかし、自分がしたなら言い訳せずに罪は償わなければならない。失敗をするなとは僕は思わない。人間生きていれば失敗する。ただ、その失敗に対して罰があるならば甘んじて受けなければならないと僕は思う。

それともう一つ、優しいだけではナメられるというひとがいる。これは確かにそう。しかし、僕は従業員に怒ったりしたことはない(出入りしている業者には怒ったことがある。それは患者さんに迷惑がかかるミスをした上に言い訳ばかりしていたから)が、ナメられたりはしていないと自分で感じている。

このSNSで誹謗中傷しておいて言い訳する人と、優しいだけでナメられる人は共通点がある。それは覚悟が足りないことだ。

覚悟がないから言い訳するし、覚悟がないからナメられる。
「こいつは怒らせたらヤバい」と思わせていたら、おいそれとナメた態度は取れないものだ。

僕は自分で心に刀を呑んでいると思っている。
いつでもやったんぞという精神性を持っているだけでかなり楽になるものだ。僕は武道や武術をしているが、実際に刀を持っていなくても、いつでも抜いてもいいんだぞという覚悟があるだけで、周りが警戒するし、イジメにも合わない。

新学期が始まる頃に学生の自殺が多くなる。その頃にいつも自殺をするなという文章を書く。そして、いつもいうのが騙されたと思って「3ヶ月格闘技をしてくれ」というものだ。こいついつでもシバけるぞと思っているだけで、イジメられにくくなるし、イジメられたとしてもなぜか精神的に大丈夫になるのだ。

よく武道とかしていると、現代社会でなんの意味があるのか?と言われれることがある。僕の場合は人体の機能を知るためにやっていたりするが、強くなるということを目標にした時に現代社会での意味は少ないかもしれない。

それでもなお強くなるということは意味があるのだ。ただ、肉体が強くなるだけではない。精神的なゆとりも生まれるし、行動に重さができるのだ。

大いなる力があると大いなる責任が生まれる。簡単に喧嘩を売るようなことはなくなるし、逆に喧嘩を売られた時に簡単に買わないし、やらないといけないとなったらサッと腹を括ることもできる。これが大事なポイントなのだ。

ある剣術家は技は一級品だが、精神性の低い人もいる。僕はこの剣術家の技術は当代一だと思っているが、なんせ精神性が悪い。周りに喧嘩を売るのだ。武道家武術家であるならば、それも構わないと僕は思う。相反する正義もあるだろう。ただ、このひとのよくないところは土壇場で逃げるのだ。ある体術家(以下Aとする)に喧嘩を売ったときは剣術勝負でといい、Aがそれで構わないと言ったら、真剣勝負だといい、Aがそれでも構わないと言ったら時間と場所を指定しろといい、時間と場所を指定したら自分が真剣勝負を言ってきたのに現代では法律がといい、挙句上の方の人が出てきてなぁなぁにし、自分はその日用事があるととかいい出したのだ。しかもその用事というのが車の免許の更新なのだからそれは別日でいいだろうというお粗末な内容だった。

僕は喧嘩を売るのはいいと思う。ただ、売ったからには逃げてはいけない。ひとを切ることになったとしてもそれは法律が許さなくても切るべきだと僕は思う。法律とかではなく自分の覚悟を優先すべきだ。それが法律に触れるなら言い訳せずに甘んじて罰を受けるものだと僕は考えている。

この剣術家は正直精神性は低いと思う。よく健全な肉体に宿る健全な精神というが必ずしもそんなことはないのだなと思わせる人物だ。ただ、そういう意味ではアンチの僕が見てもこの剣術家の技術はいい。本当にいいのだ。羨ましくすらある。

そんなこともあるのだが、皆さんは心に刀を呑んでいますか?
僕は自分で呑んでいると思っているし、何かあれば抜く覚悟もあるし、日々刀も研いでいるつもりだ。
そうすると自ずと喧嘩を売られることというのはなくなるし、自分から喧嘩を売ることもない。個人的な争いごとに巻き込まれなくなるのだ。

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