幸せのなり方

僕が勝手に師匠と崇めているひとがある有名雑誌で記事を投稿していた。

幸せになるには「できること」と「できないこと」を明らかにすること

だそうだ。
これには実体験でもあるし、非常に納得する内容だった。

例えば、僕が苦しんだことに父との関係がある。
僕は父を改善しようとか、僕の話を理解させようとしていた。
ある程度頭があれば、数字で話をしたらわかると思っていたし、
情報を頑なに遮断するひとというのがいることを知らなかった。

ずっと苦悩していたし、努力をすればするほど関係が悪くなり、
悲惨な結果を招いていた。

ある日、ダニングクルーガー効果というものがあり、
情報を遮断するひとがいるということを知ったのだ。

そのひとを変えようとするのは無理(方法がなくはないが労力が大きく、可能性も100%ではない)で、そういうひととして接するということにしたのだ。

ある意味で諦めたのだ。
ただ、この投稿では諦めという字には悟り(さとり)という意味もあるというのだ。確かに四諦という言葉を般若心経を解読していた時に調べた。そういう意味もあったように思う。

四諦とは『苦』について苦諦、集諦、滅諦、道諦という段階がある。

苦諦
誰しも『苦』がある。そこから開放される方法はないのか?
お釈迦様はあることに気がつきます。
『苦』とは異常なことではなく普通だ、と。あって当たり前のことなのだと。
お釈迦様は言います。

人生は『苦』である

と。
これは生きることが苦しいという後ろ向きな言葉ではなく、『苦』から逃げようとせず、向かい合うことが『苦』から解放される第一歩となるという意味だ。そもそも『苦』ということが異常事態ではなく、普通のことなのだから逃げようとすること自体が解決に向いていないという発想だ。

集諦
『集(じゅう)』とは原因という意味です。
お釈迦様は『苦』の原因は『渇愛』や『貪欲』であると説いている。
『渇愛』は色々な欲望の満足を求めてやまないことであり、『貪欲』は無制限に貪り(むさぼり)求めることである。
それが『苦』の原因であると知ることが集諦という悟りの段階です。

滅諦
集諦の段階で『苦』というものはひとの気持ちのあり方によって生じていることがわかりました。『渇愛』を捨て、『貪欲』を断ち切れば『苦』を滅することとなることを理解することが滅諦という悟りの段階です。

道諦
お釈迦様は『苦』を滅する道や方法を詳しく説きました。その生き方を八正道と言います。それを理解することが道諦という悟りの段階です。

八正道に関しては次回投稿したいと思います。

いい意味でいいタイミングで諦めるというのは幸せになる方法として
正しいと僕は考えている。分を知るということだと思うのだ。

しかし、それは自分自身で気が付かなければならない。
早いタイミングで諦めると自分の可能性を狭めることになるし、無限に可能性があると可能性を探し続けて苦しむこともあるのだ。

自分で決めたことには責任を持ち、
自分が決めて起きた結果には諦めも必要なのだ。

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