霊道

 それは、私が会社の上司に対して「いつか言おうと思っていたんですけど、私の顔じゃなくて胸と喋る暇があったら、奥様と毎晩ハッスルしたら如何でしょうか? それともバイアグラを常飲していても、効き目があるのは勤務時間になってからなんでしょうか?」という捨て台詞を残して早退した時の事だった。
 今思えば、いつもバスに乗って帰る道程だったのを、気晴らしに徒歩にしたのが不味かったんだと思う。

「ここは霊の通り道なんじゃ」

 何の前触れも無く、かなりお年を召したお爺様が、私に語りかけてきた。
 殆ど焼け野原のようになっている頭部には、申し訳程度に白髪が生えていて、その割には背筋はピンと伸びている、しっかりとした年配者だった。
 ただ、その物腰に反して唐突に私に向けて発した言葉は、明らかに深く警戒するもので、このお爺様はどこのデイサービス施設からいつ頃抜け出して徘徊している方なのだろう、消息不明になっている状態では今頃ご家族が心配して捜索願いを出しているのではないかとかそんな事が頭を過っていた。
 お爺様は、そんな私の心配を他所に、話を続けた。

「ここは今でこそアスファルトで舗装され、緑地に囲まれた良き散歩道となっているが、戦時中に多くの兵卒が倒れた事もあって、それに引き寄せられるように、この世から溢れた者達が彷徨う霊道となっているんじゃ」
「あーそうですかそうですか。お爺様お家は何処ですか?」

 私はなるべく刺激しないように、脳内で導き出した最善の選択肢で対応すると、御家族の元へ無事返すには、何が一番重要なのかを考え抜いた。

「お嬢さん、私の家はもう無いよ。強いて言えば、この街が家屋かな」
「街が、ですか……」
「私はこの街に育ててもらったようなものだ。街が実家であり、母なのだよ」

 最もらしい事を言っているお爺様だったが、ここで気を抜くと、きっと一気にイニシアチブを持って行かれると思った私は、最新鋭のチップを搭載した大脳皮質に高負荷を掛けて、フルスピードで再考を始めた。

「それはそれは。とても素敵な解釈と見聞の持ち主なのですね。ところで御家族の連絡先は分かりますか?」
「お嬢さんが半信半疑になるのも無理は無い。どうやらお嬢さんは、『見え過ぎてしまう』お方のようだからね。今時珍しいと言えば珍しいが、悪い事は言わん。遠回りして行くといい」

 お爺様はそう言うと、横断歩道を挟んで向こう岸の道を指差した。
 今行こうとしていた道はこのまま真っ直ぐ行けば駅前に五分と掛からず着くが、彼方側の道だと10分程余計に時間が掛かる事になるので、私は怪訝な思いを表情に出してしまった。

「あの世のはぐれ者と遭遇する前に、早く行くと良い。今度から歩く時は気を付けるんだよ」
「……御丁寧にどうも」

 終始訝しげだった私は、お爺様を家元に帰す事は諦めて、忠告通り従う事にした。
 ボーナスステージが始まったと思えば気が楽だろうと自分に言い聞かせ、嫌々ながらも帰宅延長戦へと突入する。
 横断歩道を渡って車道の半分くらいに差し掛かったところで、お爺様が背後から声を掛けてきた。

「こんな事を言っては不謹慎かもしれないが、別れ際に人と話せて楽しかった。君のような綺麗なお嬢さんと」

 耄碌していたようだったのに、お世辞だけは達者だなと思った私だったが、少しも悪い気はしなかったので、薄く微笑んで「失礼します」と頭を下げて再び向こう岸へと渡り切った。
 先程通る予定だった道とこれから歩こうとしている道は大きな国道を挟んで並行して駅前まで続いているが、現在進行形の方はその国道が邪魔をして、目前に駅が見えるのに、無駄に複雑な陸橋を渡って駅に向かわなくてはならない。
 会社で揉め事を起こした後で、普通なら厄介事に巻き込まれたと更に落胆するところだったが、私は不思議と不快な気持ちにならなかった。
 多分、御老人が割と紳士的で、今時の輩よりも、憎っくきパワハラ上司よりも遥かに魅力的に感じていたからかもしれない。
 面倒な陸橋に差し掛かった時だった。
 葬儀会場の案内看板が電柱に寄り掛かっていて、ああそう言えばこの近くに斎場か何かあったなぁなんて思い、ふと視線を案内看板が差す矢印の方に視線を移した。
 本当に何気なく見ただけだったのだが、偶然にもその斎場の方から遺族と思わしき人々がぞろぞろと退場するところだった。
 皆悲しみに暮れていて、先頭には故人に近しい人だろうか、遺影を持って目頭を熱く燃やしている。
 遺族の前には斎場が用意しただろうマイクロバスが横付けされていて、全員が乗ると、間も無く発車し、次の目的地である火葬場へと向かおうとしていた。
 私は何故かその様子に釘付けになっていて、ずっとマイクロバスを目で追った。
 国道を走り私の前を横切るマイクロバスの窓際には、遺影を持った遺族が座っていた。

「あ」

 と言う間に通り過ぎて行くと、マイクロバスはすぐに私の視界から姿を消した。
 残された排気ガスの臭いが私の鼻をくすぐっていた。
 遺影に見覚えがあった。
 さっきのお爺様だった。

「うん、なんて言うか……」

 きっと、私は忠告を無視して、またさっきの道を歩いてしまうかもしれない。
 あのお爺様は、私の胸ではなく私の顔を真っ直ぐ見据えて「綺麗」と言ってくれたから。
#小説 #掌編 #cakesコンテスト

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