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019【こどもの心に火を灯す】

「未来は子どもたちがつくる。」

「教育は国造り」

そんなことは当たり前。誰もが知っている。でも、どうやって教育をしていくかは、誰も知らない。だから、自分が通ってきた道を歩ませようとする。

「心を拓こうとする。」

北海道の歴史には、開拓スピリッツが流れている。それまでここに暮らしていたアイヌを欺し、森を切り倒し、道を拓いてきた。アイヌから土地を奪い、文明を与えた。強靱な弓から放たれる毒矢は鉄砲になった。そして、心を奪い、金を与えた。仕事や居場所をどんなに与えられようと、やり甲斐や大切な人とともに過ごす時間が与えられない限り、奪われた心が満たされることはない。

「心を拓こうとする。」

それは道を歩ませることではない。道を拓くことではない。道なき道を歩き、自然の恵みを感じ、生かされていることに感謝する。耳をすまし、葉のすれる音、動物の鳴き声、風の音、川の音、、そして精霊たちの息吹を感じること。足の下に踏み固められ自然にできる道こそが本当の道。それこそが、心を拓く唯一の道だ。

ブラジルの教育学者であるパウロ・フレイレは、教育における一般的な形態を批判するために、「銀行型教育」という言葉を用いた。フレイレは既存の教師-生徒関係の特徴として「語りかける」という行為を挙げた。つまり、相互発信的な「対話」とは異なり、教師による一歩通行の行為である。教師は生徒の日常の生活経験とは無縁の話題で、「忍耐強く耳を傾ける客体」と化してしまう生徒を満たしていく。このような教育では、教師はできるだけ多くの知識で生徒を満たせばよい教師、生徒はできるだけ多くの知識を暗記すればよい生徒、とみなされる。この状況をフレイレは銀行に例えた。つまり「生徒が金庫で教師が預金者」なのである。

このような銀行型教育では、知識は教師によって独占されるものとして扱われる。これに対して、フレイレが理想とする教育では、生徒により能動的な役割を与え、より共同的な学習形態を確立することであった。そこでは、教師が一方的な「語りかけ」である「コミュニケ(声明)」ではなく、教師と生徒の間の「コミュニケーション (交流)」が求められる。フレイレはこのような教育を「問題提起型学習」(Problem-posing education)と呼んだ。

フレイレは教師と生徒の二分法に対して強い嫌悪感を示した。ルソーによって認められたこの二分法は、デューイによって継承されている。しかしフレイレにとっては、それは絶対に改められるべき考え方であった。親子関係においてもそれなりの教師-生徒関係が存在するわけで、教師と生徒の二分法を完全に改めるという状態は想像しがたいが、フレイレは、教師のような生徒、生徒のような教師、という概念を提示し、教室参加における基本的な役割として、学ぶ教師と教える学習者というものを打ち出した。パウロ・フレイレの教育実践からエンパワメントという言葉が生まれた。

知識を伝達することが教育の目標ではない。教師と生徒の間の交流によって、共存する。教師による知を伝達するだけの、生徒を抑圧することはあってはならない。そういった沈黙の文化は、決して心を拓かない。

子どもは一度心に火が灯れば、生涯にわたって学び始める。
「好きなればこそ、飽きずに努力するから、遂にその道の上手となる」
という。そして、こうも言う。

『「好き」と「打ち込む」はコインの表と裏のようなもので、その因果関係は循環しています。好きだから仕事に打ち込めるし、打ち込むうちに好きになってくるものです』 
『「好き」こそが最大のモチベーションであり、意欲も努力も、ひいては成功への道筋も、みんな「好き」であることがその母体になるということです』稲森和夫
『自分はそれが好きだから、と自然なかたちで仕事をしなさい。成功はあとでついてくるから』ノーマン・V・ポール
『成功の秘密は、あなたの仕事を休暇のように楽しむことです』 マーク・トウェイン

子どもとの環境や交流を工夫して、何事でもいいから、「好きになります」と言わせたら、それは本物の教育者なんだと思う。エンパワメントとはそういうこと。いまの教師がやってることは、なんだか見苦しい。

赤毛のアンが、教師になろうと決心した時、「何があってもこどもの希望とやる気に火をともす教師になる」と宣言している。
101歳で亡くなったブルーナーも「子どもに意欲と可能性を与えられない教育は失敗である」と喝破しています。知識を与えることも大事。同時に学びに向かわせることはもっとも大事です。

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