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優しいって言わないで #ひかむろ賞愛の漣

初対面の人に、「優しそうだね」と言われるのがすごく苦手だ。
優しそうって褒め言葉だし、悪い意味じゃないのは分かってるから、それを苦手だというわたしがどこか捻くれているのは承知の上で。
でも、「優しそうだね」の言葉の裏に、「だから、俺にも、私にも、優しくしてくれるよね」という下心があったらどうしようと怖くなるのだ。

小学生の時、わたしは気が弱くて常に誰かの顔色を伺うような子だった。友達を作るのが苦手だったわたしは、いわゆるひょんなきっかけで、「友達グループ」に入れてもらえたときには、いかにその友達を失わずに済むかを必死に考えていた。
それは、友達のお願いを「嫌だ」と言わないことだ。旅行に行くときにお土産を買ってきてというお願い、動きたくない気分の休み時間にも、「一緒にどこかへ着いてきて」というお願い、「他の子と遊ばないで」というお願い。
それらを全て断らないわたしに、友達は「優しい子」というレッテルを貼り付けた。
優しい子でいる限り、友達グループはわたしを手放さなかった。
だって、優しい子はお願いすれば何でも思い通りに動かせて、都合がいい。
間違いなく当時のわたしの優しさは、誰かを繋ぎ止めるために差し出すものだった。

優しさには2種類あると思う。
ひとつは、与えて自分も満たされる「優しさ」
そしてもうひとつは、自分の身を削って差し出す「優しさ」
小学生の時のわたしは後者しか知らなかった。
その彼女らの口から発せられる「優しいね」に潜む意味も理解できずに、ただ心が覚えていることは、「優しさとは、嫌だったり、我慢したり、そんな苦しいことを押し殺して与えるものなんだ」ということだけだった。

そんなわたしに家族はいつも言っていた。「あんまり優しすぎると、悪い人に、その優しさに付け込まれるから気をつけなさい」と。
家族からの「あんたは優しい子だね」という言葉は、友達から言われるそれと違う温かさをもっていると子供心ながらに思っていた。
それなのに、それすらも悪い人に付け込まれる隙を与える、間違いなのかもしれなかった。

優しい人は弱い人。優しさは利用されるものだ。それが理解できるほどに充分に多感になった頃、わたしは優しさが嫌いになっていった。
少しずつ心が削られていく苦しさを感じながら与える優しさに、返ってくるものはほんの少ししかなかった。
優しい人なんて、自分が損をするだけの愚か者だ。

でも、大人になるにつれ、わたしは本当の優しさを受け取っていた。
もう数え切れないほど毎日の優しさを家族から。
心が壊れそうなときに、何も言わずに気がすむまでそっと寄り添ってくれた友達から。
受験生のとき、どうしても休日も学校で勉強したかったわたしの為に、可能な限り休日返上で学校へ来て自習室を開けてくれた高校の先生から。
助けてほしいと頼んだときに、自分の時間を割いてまで協力してくれた友達から。
まだまだ思い出し切れないほどの優しさがあった。
誰かの優しさを受けとるたびに、申し訳なさとむず痒さが走った。自分の時間を犠牲にしたり、労力を費やしているはずなのにどうしてそこまでわたしに優しくしてくれるんだろう。
「時間を使わせてごめん」と返すわたしに、「いいよ。だって、放っておけないじゃん。」と笑う友達から受け取った優しさは、紛れもない「愛」だった。

優しさのもつ二面性に翻弄されながら、いつだって優しさは憎しみと愛の対象だ。
もしも優しさを色で表せと言われたのならわたしは絶対に淡いピンク色なんて塗らないと決めている。塗るならば真っ黒なクレヨンで塗りつぶしてしまおう。でもその下に、細い竹串で削ったら現れるオレンジやピンクの暖色を目一杯忍ばせておく。

わたしは優しくなんかない。
心が揺さぶられないかぎり、自分で自分の心を削るなんてことはしたくない。
この心を誰かの下心でかき乱されるのは、苦しくてたまらない。

誰に対しても常に親切でありたいと思う。
強い感受性はわたしに優しさを求める。
でも、わたしが心を差し出して優しくするのは大切な人に対してだ。
不器用でごめんなさい。
でも、大切にしている人に差し出す優しさは、たっぷりと慈しみの愛を含ませていたい。
何度でも言うけど、わたしを本当に優しいと感じるならば、それはわたしにとって大切な人だからだよ。

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