忘れつつある過去たちへの祝福


最近、文章を書けないと思うことが続いた。

もっとつぶさに言うと、文に心が乗らない、心情が折重なり脳内に文が紡がれることがなく、チャンネルをぼーっと変える時のように「ぶつっ、ぶつっ」と景色が移り変わるような、空洞感に纏われていた。

枝毛を探し続けるような。
最新だと分かっていても何度も更新してしまうTwitterのような。(しゅぽっ)

そして、そんな自分に抵抗する力もなく、ただそれを”良し”とし、流し続ける。初めての感覚。そして、それは不思議と軽やかな気持ちでもあった。

◇◇◇

「人間そんな時あるよ」と言われれば「そうだね」としか返しようが無いのだが、私はつい最近まで、かなりタイトに生きてきたように思う。

それは時に「時間」、時に「メンタル」に対して、だ。

仕事で一日の4分の3以上時間を取られることもあった。仕事には「対価」があるから、頑張れてしまう。

一人暮らしを始めたときにも、意味もなく朝5時に起きた。レポートの提出も一番早かった。

そしてメンタル面。電車、学校、会社の中で人に怯え続けたこと。誰かのために我慢すること。他人の顔色をうかがい続けること。もっと言えば、両親のために「良い子」で居続けること。

ひたすらに心を削り続けることが身に付いてしまっていた。自分を犠牲にする行為をあたかも”幸せ”と錯覚してしまう。

「ありがとう」と言われるために生き、「今」を必死につかむことで、存在することをゆるしてもらうような感覚。

いつも何かを追いかけている。何かに急かされ、ゴールを見据えている。でも、それが何なのか分からない。そんな感覚の中、生きてきた。

◇◇◇

最近、その感覚が消えかけている。頑張ってきたしわ寄せなのか。

私は、たじろいだ。

良いことのように思えるが、自分が存在して良い理由が、価値が、無いのは困る。でも、そんな概念すら、ふわふわっと溶け落ちてしまっている。

か ん ぱ い !

単語が頭の上にぽんっと降りてくるような素っ頓狂なこの感じ。西加奈子さんの『ふる』を本棚から取り出した。自分は今『ふる』にそっくりだと感じた。

主人公の池井戸 花しす(いけいど かしす)が、仕事・恋愛・家族・友人とのかかわりの中で・・・と、ここまで書いてみたものの、この物語の「とらえどろこのなさ」に今、困っている。

その「とらえどろこのなさ」は、今の自分にとても似ている。

花しすは28歳。「アダルトビデオのモザイク修正」を仕事にしているが、中盤から、そのキャッチーな彼女の背景にはほとんど注目することすらなくなってしまう。

彼女が徹底している「誰も傷つけない、受け身の生き方」、そして、それを持て余した「自分の卑しさ」が、痛烈なまでの親和性を持って語りかけてくる。そちらの方が、圧倒的に強烈だからだ。

東京の街で静かに生きる花しすの姿は、今までの私にとても重なる。

でも花しすは、自分のことを優しいと思ったことなど、一度もなかった。
自分は、誰かを傷つけるのが怖いだけだ。
それを優しさだと、ある人は言うのかもしれないが、傷つけないことと、優しいことは違う。

花しすは、人が傷ついたとき、顔が歪むのを見るのや、流れている時間が止まることが嫌なのだった。そしてそのことに関与しているのが自分であるということが、一番怖いのだった。

これを読んだ時の、雷が落ちるほどの共感。「ばれている」という恐怖は強すぎた。心にモザイクをかけたかった。

でも、花しすは、面白いかたちで救いを得る。(ここの描写は、西加奈子さんの文筆の腕が光っています)

その時の、花しすの気持ちはこう綴られる。

しゅ く ふ く
自分は生きている。何かを忘れ、何かに忘れられ、誰かを傷つけ、それが自分の責任であって、そして誰かに傷つけられ、そのことで誰かを恨むことになっても、自分は今それらたくさんの「今」の先端で、生きている。それだけで、祝福されている。

「しゅくふく」— 花しすの頭上には、たびたび平仮名の単語がはじける。それは、今の私の頭上にも起きている。文章が紡がれない感覚。コトバが手の指の間からこぼれてしまう、あっけなさ。

私は「忘れる力」を手に入れて、悲しいことも苦しいことも過去に流してしまうことに成功しつつあるのではないか。そんな何でもない「今」に幸せを感じられるようになったのだろうか。

”成長”と”老い”の間にある、言葉にできない人生のプロセスが今、自分の心と体を包んでいる。

そして、それは、とても楽だ。

◇◇◇

こうしている今も「ぶつっ」と景色は途絶え、もういろいろ忘れてしまった。

それでもたまに、強烈な焦りが襲ってくることもある。

道をゆく犬と飼い主を見て、私が本来求めるべき「ゴール」は、捨ててきた実家や、料理する母の後ろ姿や、実家の犬のあの柔らかさ、二度と戻らぬ両親揃った食卓なのではないかと、はたと直感する。鼻の奥がツンと痛む。以前ならここで大泣きしていた。しかし今。次の瞬間には、全く違うようにも思っている。私が今求めているのは、自分が働いたお金で暮らす、自分のための部屋だとも思う。その圧倒的な差に驚き、目眩すら起こす。

でも、その目眩も、いつの間にか治っている。

「あ、卵が安い」と拍子抜けしてしまう世界への感想が、意外にも大きな声になって漏れる。そんなことで、目眩もかき消される。

◇◇◇

いろんなことを「諦める力」がついたのだ、と思う。

いつも「諦められない」と地団駄踏んできた。「今」をキャッチし、「ありがとう」と言われ、全てを「意味あるもの」にしようと絶えず頑張ってきた。

でも、頑張らなくても、もう大丈夫だった。

きっと本来ならば、この「余白感」が当たり前にあるべきだったのだろうが、タイトさが染み込んだこの身体には、少し違和感をもたらす。

そして、感動することが「悲しむ」ことと強く結びついていることを、こうも裏付けられるとは微塵にも思っていなかった。

今、凪になっている心の側面は、今までのような「苦しかったから、ありがとう」という逆説的な感動を、求めなくなっている。だから、今までのように文章を書けなくなっているのだ。

でも、今なら。「悲しむ」以外の角度から、感動を味わえるチャンスなのかもしれない。太陽がきれいとか、紅茶が美味しいとか、曲がりくねりのないシンプルな感動。普通に幸福を手に入れることへの恐れを、手放すことを知っても良いのではないか。そして、それも命の重要な一部分、「今の先端」なのではないか。


生きることは、どんどん忘れていくことである。
でも、確実に、何かが積み重なったから、今の私がいるのも確かだ。

そんなことを思っている。

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