この街にはたくさんの楽器工場があるはずなのに、音楽をする人は少ない。

ブラジリアン・バーとフィリピンショーパブ以外は全ていかにも『ザ・場末』といった雰囲気の居酒屋とスナックばかりで、気軽に演奏できる店はあまりにも少ない。

音楽をしっかりやりたい人は、学生のうちに楽器工場でバイトして、社割で買った楽器を担いでさっさと都会に出て行ってしまう、そんな退屈な街。


『閑静な住宅地』を最大の美点として売り出す日本の不動産業界と真逆の価値観で成り立っているこの団地中から絶えず聴こえてくる音、音、音。

サンバ、ボサノヴァ、エレクトロ・ダンス・ミュージック、それに混じるタガログ語とポルトガル語の笑い声と喘ぎ声。

ここには出稼ぎの移民がたくさん住んでいて、美人だな、と思う女は十中八九褐色の肌をしている。

そんな団地の中にいて、陶器のように白い肌の美人というものはあまりにも珍しく、そして、情熱的で暑い南国の音楽ばかりが聴こえてくる中で、ケルトミュージックを奏でる人もやはり珍しい。


航平が雪乃をはじめて見たのはこの団地の公園だった。
海を見渡せるベンチに座って、雪乃は澄んだフィドルの音色を響かせていた。

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