人形の愛し方

人形の愛し方というのも様々だろう。
そもそも人形というものが様々なのだからそれも当然だが…
そんな様々な人形の愛し方と、それを知ってしまってそれは正しい愛なのか。
そもそも正しい愛とはなんなのかという、そんな正解の無い問に自分の納得のいく答えを考えていこうと思う。

例えば愛玩対象だったり、例えば鑑賞物だったり。玩具か依代か道具なのか作品なのか。
それらの愛し方を語る上で、まず物におけるマクロ的役割とミクロ的役割を理解してもらいたい。

その物を作った者の想定した役割がマクロ的役割であり、その役割は所有者やその有無に依存しないものである。
定まった用途を果たすことが物の役割であるという考えだが、作った者が込める願いはただの一つの目的ではなく複雑に、多重に絡み合った“願い”が物に与えられるマクロ的役割である。

そして、所有者が見出す役割がミクロ的役割があり、その役割は物と所有者の間にだけあるものである。
(所有者の定義については法に基づいて考えれば間違いはないだろう。)
所有者の扱いに従うことが物の役割だという考えだが、人の想いは複雑かつ多重であり、同時に時間や状況、瞬間的にその認知も激しく変化していく“望み”が物に与えられるミクロ的役割である。

物とはこの二重の性質を持ち、人形はこの二重性が最も現れる物だと考えている。

人形に与えられた願いと望み。その存在を知るからこそ、人形のそんな願いも望みを満たしてあげたい。
それが正しい愛し方だと思った。

けれどそれを知るからこそ、願いからは遠のき、純粋に望むことが出来ない。

私に人形を愛することはできるのだろうか?

人形を愛でる誰かを見ていつも思う。皆純粋に愛しているのだと。それが羨ましく、どこかで自分の物になった物は不幸じゃないかと考える(これは単に私の性分かもしれないが)


書いていくうちに考えはだいぶ整理できたが、答えは出そうにない。

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