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ノンバイナリーと格闘技

ノンバイナリーという言葉が突然にしっくりきたのは、自分は子供のころからずっと、男女二元論に苦しめられてきたからなのだと。小さい頃はどっちでもよかったはずの性別が、男女どちらかに振り分けられてしまう違和感。思い返せばその違和感は、成長とともに増していくことになったのだと。

思春期に入ると自分が好きになるのが全て女性だということに気づいた。長い期間、いじめられた経験が多かった小学生の頃。10代のわたしは正直ずっと、甘えさせてくれる女性を探し求めていた。

20代になってセクマイのコミュニティに通うようになって、自分がレズビアンの人たちには恋愛感情をもてないことに気が付いた。短髪で男っぽくふるまっていたのに、どこか女性らしさもあったわたしの中の、女性らしい中身を彼女たちは探そうとしては、見付けて指摘してきた。そこにもわたしは、違和感を感じずにおれなかった。結局そこでも、自分を悩ませたのは男女二元論。女性に見られることが嫌だったのではなく、どちらかに振り分けられる違和感。そこに抵抗していたのだと。

セクマイコミュニティに通うことをやめてからは、人間関係は仕事関係が中心となり、必然的に好きになる相手はノンケ女性(異性愛の女性)となった。そしてどれもこれもうまくいくわけもなく、友達関係と片思いの狭間に、いつも悩む日々だった。ただ振り向かせたい一心で、甘えたい自分は心の奥底に追いやって蓋を閉めて、強い自分、かっこいい自分となることをひたすら目指すようになっていた。当然のように、男性寄りのポジションを自分の中で作り上げていた。それでもあくまで男性寄り、としていたのは、自分の中の男女二元論への嫌悪感が、どちらかに振り分けられる違和感を捨てることができなかったからだ。

そんなわたしも40代に入り、ジェンダーを気にすることなく居れる、居心地のいい場所を見つけた。それが、格闘技だった。セクシャリティもジェンダーも関係なく、彼ら彼女らはみな一様にただひたすら「強さ」を求めていた。競技のルールとしての男女別はあれど、それ以上に体重別階級という身体差をシビアに分ける世界。わたしにとって男女差とは「単なる身体差」という捉え方になっていった。そこに強さを求めて練習にやってくる、彼ら彼女らの純粋でひたむきな心に、男女二元論なんてなかったのだ。

今のわたしは、とても自由だと感じてる。

王子様とお姫様の典型的な少女漫画が大好きだし、そんな時は王子様目線にもお姫様目線にもなれる。格闘技を見る時は男女関係なく当事者目線だし、アベンジャーズにだって入りたい。

そう。

わたしは今、とても自由だ。

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