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どうもわたしです

今回は私について考えてみようと思う。

私はとても飽きっぽい人間だ。スポーツにしても趣味にしても仕事にしてもある程度の知識や技術を身に着けると、熱意を失ってしまう。ずっと一つのことに集中しているエキスパートな人々は本当にすごいなぁと思う。

幼稚園の時の文集に将来の夢は銀行でお金を数える人と書いてあった。なんだその全っ然かわいくない夢。でも確か別に銀行で働きたかった訳ではなくて、単純にボキャ不足で自分の夢(何だったか忘れたけど)を先生にうまく伝えられず、【銀行でお金を数える人】にたどり着いたのを覚えている。南無三。その後も母の影響でナースに憧れてみたり、父の影響で教師になろうかなーとか思ってみたり、とりあえず何になりたいかずっと定まらなかったのを覚えている。

ただひとつだけ一貫していたことがある。幼いころからずーっと英語を喋れるようになりたいと思っていたこと。三歳か四歳のころ、英語教師の父に連れられ父の友達の金髪家族と遊びに行った。その家族には私と同い年くらいのモニカという名前の娘がいて、まあ子供同士だから言葉が通じなくてもなんとなく一緒に遊べるのだけど、何といっても人生で初めて見る金髪に青い目、しかも彼女は何だか私には理解の出来ない言語を喋っている。。。。超かっこいい!

私は死ぬほどその不思議な言語に憧れ、私もいつかモニカみたいに喋れるようになりたい!と思ったのである。その当時は小学校で英語の授業は無かったので、父にちょっと教えてもらったり、自分で学んでみたりもしたが中学校で本格的に始まった英語の授業が本当に楽しかったのを覚えている。そして、中学三年生の時にオーストラリアの姉妹都市に二週間の交換留学に行った。正直ホームステイの事はあまり覚えていないけど一つだけしっかり覚えていること、オーストラリアの空港の免税店で日本人女性が外国人に混ざって働いていたこと。。。超かっこいい!!!

化粧品とか香水とか、中学生が一番憧れる商品を売っている(既にかっこいい)上に、外国人と英語でコミュニケーションを取りながら、外国で働く、、、か、かっこよすぎる。。。

今思えば何でCAには憧れなかったのだろうー飛行機苦手だからかな。

ということで、高校は英語科に進み高校二年生の時にカナダ留学を経験する。その当時は自分もう大人だしって思ってたけど、15歳って超ガキじゃないっすか。世の中の事なーんにも知らないし、お金だって無いし、携帯も持ってない。しかも英語も喋られへんのに留学ってもう、当時の自分のその勇気を褒めてやりたい。しかもESLじゃなくて公立の学校。日本人私のみ、その町の人口800人。まあそれはそれは異質な存在なわけですよ。右も左も、前も後も本当に何もわからなくて、でもまあ良くしてくれる人もいて、とりあえず生き延びて帰ってきた。

ところで私には年上のいとこがいる。私の帰国後、久しぶりに彼女に会うと、彼女がゴリゴリのBガールになっていた。スパイラルパーマにティンバにショーパン、週末はクラブに通ってダンスも習ってる~そして彼氏はハーフのラッパー。そして、私に衝撃の第三波が襲ってきた。。。超かっこいい!!!!カナダのホストシスター(白人)にラップのカッコよさと黒人のクールさを死ぬほど吹き込まれ、MVに出てくる黒人のセクシーさに死ぬほど感化されていた私にとって、いとこは完全にトリガーとなった。そして高校卒業後、形から入るタイプの私はすぐさまスパイラルパーマをあてティンバを買いに走った。そして大学ではダンスサークルに入るぞ!おー!と意気込んだのである。

私の行った大学は町中にあるのだが、私の学部は少し離れた市にキャンパスを構えており、陸の孤島と呼ばれていた。緑の多い平和なキャンバスにティンバとスパイラルで乗り込んだ私はすっごく浮いていた。思い返すととっても恥ずかしい。そんな身なりだから、ダンスサークルの見学に行くと、経験者ですよね?と必ず聞かれた。いいえ、バレー部でした。と答えるのがとっても恥ずかしかった。丘サーファーみたいな感じ。だから、大学の時は自分の中身と外身を一致させるためにダンスばっかりしていた。ちなみその大学は帰国子女、留学経験者が本当に多くてみんな英語が喋れた。し、外国経験者特有の雰囲気を持った人が多くてとても心地が良かった。今でも大学の友達はとても大切な存在だ。

大学でダンスばっかりしてた私はもちろん就活に苦労した。というか、英語の勉強をして大学までスイスイ来れたのに、就活で”英語以外に何ができるの?”と聞かれたときは、あー終わったと思った。だって今までずーと英語ばっかり勉強してきて、”でもそれは武器じゃなくて、ただの道具です。”と突然村人Aに告げられ、もう大学一年には戻れないしダンスばっかりして来たし、あー何も絞り出せねぇ。そして就活真っ最中に東日本大震災が起きて、あれは人生で一番病んだ時かもしれない。

でもなんとか貿易事務の内定をいただき、卒業してから5年そこで働いた。そこは私にとっての異世界だった。高校大学とずーっと半分外人みたいなやつらとつるんできて、突然、THE日本企業みたいな会社に入社した私は本当に自分が世間知らずだったことに気づく。読めない漢字がいっぱいあって同僚に死ぬほど笑われた。でも有難いことにとっても良い人が多かった。たくさんの人にお世話になった。

でもやっぱり外国への思いが捨てきれなくて、毎日パソコンで事務作業してるのに疲れてきて、ビジネス街にある狭い六畳のマンションが嫌で、全部捨てるのは怖かったけどノリと勢いを頼りに27歳で単身カナダに渡った。

結局、ワーホリ期間中はカナダのイソップで働いていた。その関係でワーホリ二か国目のオーストラリアでもイソップで働いた。このことについてはまた別の機会に書いてみたい。そして今はカナダに帰ってきて、移民申請の準備をしている。

期間限定じゃなく、一生この国に住むかもしれないと考え始めると、正直めちゃくちゃ日本食恋しいし、日本の友達と意味のない話をずっとしてたいし、日本のお笑いはめっちゃ面白いと思うし、日本のおもてなしは最高だし帰りてーって思う。あんなに憧れてた外国に住んでるのになぁ。

そして現在ビザの関係で無職であり、そんな自分を大嫌いになりかけている。なーんにも成長できてないし行き詰っている感が半端じゃない。

ただ、今の自分自身に対してのモヤモヤとか、憧れと現実のギャップは一旦置いといて。ここに書き殴ってみて思ったことは、忘れていたけれど、あのころ憧れていた何かには多少ながら近づけているのかも、と。(もうB系じゃないけど)

私はとりあえずやってみないと気が済まない。でも小心者なので、すごく色々考える。でも石橋を叩きすぎて結局考えるのめんどくさくなって最終的には目を瞑って勢いで渡るみたいな人間。だからそんな私にとっては、憧れを頼りに生きていくのが一番の原動力になるみたい。あー我ながらコイツ死ぬほど頭悪そう。笑

ちなみにもうすぐ30歳になる。また新たな憧れを見つけて、それに向けて現在勉強中。それについてもまた別の機会に書いてみたい。

ここまで読んでくださった方ありがとうございました。






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