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内と外、わたしとあなたの間にあるもの ー 「呼吸する窓」によせて

個展「呼吸する窓」に向けて、ステイトメントと呼ぶにはいささか長くてまとまらない文章を書こうと思う。

長い間、わたしにとって制作することは自分と向き合うためのもので、制作している時間というのは1人きりでいられる時間だった。学生の頃は作品について話をするのも苦手だった。言葉にしてしまうことにずっと恐れを抱いていた。(数年前、noteで作品の話を少しずつ書くようになったのはそれを変えようとと思ったからだ。)
今でも、もちろん1人になるために制作している部分はあると思う。でも、ここ数年でそれが少しずつだけど、変化してきたように思う。ずっと内を向いていた意識が、外に開かれてきた。

わたしは作品制作の傍ら、心理士であり作家でもある橋本佐枝子さんと2018年から箱庭プロジェクトというものをやっている。プロジェクト、というと大げさに聞こえるが、作家を集めて箱庭をつくる会を不定期に開催している。この*箱庭というのは、普通は心理療法の一手段として使われるものである。作家の精神分析をしようというわけではない。ただ、最初は自分の知り合いの作家が作ったらどんなものが出来上がるのだろう、作品を作ることと箱庭を作ることの違いはどこにあるんだろう、というような興味から始まった。

箱庭も自分と向き合うための装置だと思っていた。もちろん作っている本人はそういうことを意識して作っているわけではない。砂の上に玩具を置く。なんとなくしっくりこない、場所を変える、ここだとしっくりくる。玩具を置くイメージがわかない時はとりあえず砂を触ってみる。砂を山にしてみる。川のようにしてみる…そんなような作業を繰り返し、出来上がったものを自分でぼんやり眺めてみる。

箱庭を作り終えた人に話を聞くと色々話してくれる。

ここは高さをだしたかった、この部分が気に入っている、今日は枠の外が気になった、置いてみたけど違ったから砂で隠した、この人はこの景色を眺めている…そんなようなことを。

自分以外の誰かが作った箱庭を見るのは予想以上に面白かった。同じ道具、同じ玩具を使っていても、自分の中からは決して出てこないであろう風景や配置があった。正直、作品を見るのと同じくらい楽しんでいると思う。

そのうち、1人で箱庭を作るのでなく、誰かと箱庭を作りたいと思うようになった。最初の一つは、わたしが作った箱庭に、他の人に手を加えてもらうという試みだった。よく覚えている。わたしが何を置こうか迷った末、結局何も置けず空のままだった玉座の上に、その人は小さな子羊を乗せてくれた。
仰々しい玉座の上に、無力そうな子羊。それを見て、ああ、そうか君のための玉座だったのか、と妙に納得して嬉しかったのを覚えている。

はじめにわたしが作った箱庭
他の人の手が加えられた箱庭。
柵の位置、玉座の上の子羊、その隣の恐竜の骨、鳥居が標識に変わっている。
玉座の上には子羊がちょんと座っている。
恐竜の骨は大きくてインパクトはあるが、あまり恐ろしく感じなかった。
むしろ(子羊が恐竜に)守られているような印象すらあった。

その他にも、何人かで一斉に一つの箱庭を作ってみたり(これはスポーツのようだった)2人組で一手ずつ交互に置いていくということもやった。(これは将棋のようだった)
誰かが作った箱庭を、他の誰かが手を加えて作り変え、さらにまた違う誰かが手を加えるというような、リレーのような作り方をしたこともある。
それらは毎回新鮮で、箱庭を通して対話をしている感覚だった。
自分と向き合うための装置だと思っていた箱庭は、いつのまにかわたしにとって他者と関わるための装置になろうとしていた。

(*箱庭療法の中でも、クライエントと治療者が共同で箱庭を作ったり、親子で箱庭を作ったり、他者と共同で制作することはある)

一手ずつ交互に箱庭を作っていった時のもの。
お互いの普段の箱庭をよく知っているもの同士で制作したため、互いの箱庭のスタイルに影響を受けていたのが面白かった。


ところで、箱庭には枠がある。

中村「もし普通の、日常的な場所で、こんなことを表現しようとすると、大変なことになってしまうーということは、「箱庭の枠」というものが非常に大事だということですね」
河合「そうです。この限られた枠のなかで、しかも限られた部屋に入るということで守られているわけです。『そういう守りのなかでこそ、あなたの内面は表現できるんですよ、それに私もいますから』(後略)」

トポスの知 [箱庭療法]の世界 / 河合隼雄・中村雄二郎著

暴力的で恐ろしいような表現であっても、箱庭の枠の中でそれが現れる分には大丈夫、といったように枠が一つの安全装置になっているのだ。
人には、箱庭という枠の中で表されるような内側の現実と、実際の普段の生活などの外側の現実がある。箱庭の枠は、その内と外との間にある"境界"なのではないかと思う。

ちなみに、箱庭療法について書かれているものを読んでいると、枠を越えるような置き方は危険な状態に思われることが多いようだ。箱庭の中で収まっていた出来事がそこを越えて外の世界で出てきてしまう危険性が論じられている。

先ほど、箱庭を他の人と共同で制作するような試みをしてきたと言ったが、最初はそれをしてもいいものか、躊躇う気持ちもあった。その枠の中に他者が入ってくるというのは、恐ろしいことかもしれないと思ったからだ。

箱庭プロジェクトを始めた1回目の時に、玩具を全て砂に埋めた人がいた。当時は場所がレンタルスペースで時間がなかったのもあり、最後に制作した本人以外も含めみんなで片付けをしたのだが、(了承を得ているとはいえ)他人の作った箱庭に手を入れることにものすごく抵抗を感じた。この人が埋めた玩具を、わたしが掘り出してよいのだろうか、という気持ちがあった。他人の墓を暴くような後ろめたさを感じながら片付けをしたのを覚えている。

そのくらい、枠の内側はセンシティブな場であると感じている。
それは実際そうなのだと思う。だけど、だからこそ、そこに誰かに踏み込んできてほしいと思って、自分の箱庭に手を加えてもらうことを提案した。
誰かと関わることは傷つく可能性をどうしたって排除できない。でもそうやって外からもたらされるものによって、新たな景色が見えることはたくさんある。

箱庭の枠の高さは7cm。枠を飛び出していくことを危険視しながらも、その高さは越えようと思えばそんなに難しくなく越えられる高さに設定されているように思う。
例えば枠の高さが倍の14cmだったら。おそらく心理的にも物理的にも枠を越えるには難易度があがる。事例の中では人形が枠をまたいで越えようとしているものがあるが、14cmの高さの枠を越えようと思うとなかなかいい玩具が見つからないかもしれない。蛇のような長さのあるものを使ったり、枠を越えるためにいろんなものを積み上げたり、砂で山を作ったり、何かしらの枠を越えるための工夫が必要になってくるだろう。
でも、7cmの枠を越えるのは、そう難しくはない。

あくまであの枠は、完全に閉ざされた壁を想定していないのだろうと思う。
"枠"というのは、箱庭に限らずいろいろなところにある。"境界"といってもいいかもしれない。
自分と他者との間にある境界、それは相手が家族なのか、友人なのか、上司なのか、場合によってその境界の形や高さも変わってくるだろう。そして、その境界は断絶のための壁ではなく、相手と関わるために必要な境界なのだ。

今回の展示では、他者と関わるための"境界"について考えている。
内と外の間にあるもの、わたしとあなたの間にあるもの。それが断絶のための壁にならないよう、そこに窓をあける。内と外の間にあって、内と外を繋ぐものとして窓を配している。そうした意味で、今回の展示タイトルを「呼吸する窓」とした。

展示の企画として、「庭と窓」を開催する。
これは、2人1組で内と外の場に分かれて箱庭を作っていく試みだ。内側にいる人は、窓を通して外からやってくるものを受け入れたり拒んだりしながら箱庭を作っていく。外にいる人も、箱庭に直接介入するのではなく、あくまで境界を保ったまま、窓からそっと何かを提案する。境界を大切にしながらも、誰かと関わろうとすること。そんなことを考えるための場になればと思っている。

ぜひ、展示会場で箱庭と窓に触れてみてほしいと思う。


【展示情報】
「呼吸する窓」

|日程
2023.8.1(tue)〜8.31(thu) 12:00〜19:00
*8.12(sat) 〜 8.19(sat) 夏季休廊

|場所
ART TRACE Gallery
〒130-0021 東京都墨田区緑2-13-19 秋山ビル1F
https://www.gallery.arttrace.org

|最寄駅
都営大江戸線 両国駅 A5出口より 徒歩5分
JR総武線 両国駅 東口より 徒歩9分

|協力
橋本佐枝子

読んでいただきありがとうございます。 お恥ずかしながら常に(経済的に)カツカツで生きています!サポートでご支援いただけるとめちゃくちゃありがたいです。