オオカミの家(映画)

コロニア・ディグニダという、実際にあったカルト組織の宣伝映画という体で作られた作品。
コロニアから逃げ出した女性、マリアが色々あって悔い改め、再び神(パウル・シェーファー/コロニアの教祖)の元に立ち返るまでを描いた映画です。

ある精神科医はこの映画について、支配と従属の関係に囚われた人の見る夢と言いましたが、確かに豚が人間の姿に変わったり、姿が溶けて木になったり戻ったりと、しかもそれが何の脈略も無く表れる現象なので、ファンタジーというより夢の中の世界の様でした。

コロニアという場所から逃げ出したマリアでしたが、オオカミ(シェーファー)に怯える様子から彼女の心は未だコロニアに在る事が分かります。
そして彼女は二匹の豚から生じたペドロとアナを、シェーファーが自分にしたように支配し始めるのですが、悪気は全くありません。この事から、彼女がシェーファーの世界観に囚われている事が分かります。

支配と従属、しかし完全なる支配者・従属者という者はいないのではないでしょうか。
支配と従属の関係に囚われた人にとって、その関係は普通で真っ当な事であり、そうした人間関係しか築けないのだろう、と。
そしてそうした人間関係に囚われた人は、誰かの支配者であっても同時に誰かに従属していたりする。逆もまた然りです。
コロニアの支配者であったシェーファーも、おそらく誰かしらに従属していたに違いない、そう思っています。

最後マリアがオオカミ(シェーファー)に助けを求めるのですが、「誰かに世話してほしい」と言って乞うのが印象に残りました。
「助けてほしい」ではなく「世話してほしい」

カルトというのは「世話してほしい」と思わせるものなのかもしれない。言われてみれば世話をするって、支配する事と似ています。
人は助け合って生きていくものであり、助けを乞う事は真っ当だと思うのですが、心身共に何もかも相手に投げ出し任せっきりにし、世話してもらうというのは赤ん坊でもない限り妙な事です。

そしてシェーファーは最後、観客に向かって「お前も世話してやろうか?」と呼びかけます。助けてやる、ではなく世話してやる…

この映画をアリ・アスターが絶賛した理由が分かった気がしました。
ミッドサマー同様、カルト宗教以外にセーフティーネットが見つからなかった人間の悲劇なんですよね。
実際、こうなってしまった人間を一体他に何が救えるというのか。カウンセリングや治療を受けるにしても、本人に気付きや向上心が無ければ意味が無いと思われます。結局の所自分を救えるのは自分しかいないわけですが、その自分がしっかりしていない。
まともな人は「世話してほしい」なんて言う大人から離れていくか、距離を置きます。相手をするのはカルト宗教以外だと、支配と従属に囚われた同類、DV営業のホストくらいではないか。

カルト宗教もホストのDV営業も問題になっていますが、需要の存在、根本的な解決の難しさを感じました。





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