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日本語教室ボランティアについて

学部の頃、日本語学の授業をとっていてとても気に入っていて、後でこの時学んだことを生かすために日本語を教えてみたいな、と思っていた。
大学院の博士課程の時に、地元の地域活動で日本語教室のボランティアで約二年間、週に一回、在住の外国人に日本語を教えた。


私が住んでいる地区は、なぜかインド人の方が多かった。みなとみらいに出やすい駅からか、IT技術者などがいた。他にはミャンマーの年配の男性、日系ブラジル人、日本人と結婚した外国人の方々など。
教える側は、定年退職した方を主に、主婦でボランティア活動に専念している方、たまに私と同い年くらいの学生もいた。


ボランティア活動を始める前にボランティア育成教室もあり、教授法などを習う。しかし、様々な生徒が来るため、短期間で教わる育成教室では物足りなかった。日本語話者でも、日本語をそんなに意識的に使っていないので、日本語学的なこと、文法など、聞かれて答えられないことも多かったし、理論的になれない部分はあるということを、日々目の当たりにした。もちろん、日本文化的なことも、答えられない質問をされることも多い。日本に住んでいて、日本語をしゃべるということに意識的になれないと、なかなか日本語教師は難しいように思った。


幸運なことに、私は外国語の勉強が好きで、語学に関心があったので、そういうところには敏感になって生きてきた経験があったので、語学的な質問をされるのが嬉しかった。でも、周りの他のボランティアを見てて、「こうだからこうなのよ」と言っている風景に出くわすと悲しい気がした。
ボランティアにもいろんな人がいると思うが、せっかくやるなら、自分も勉強して、成長していけたら、と思っている人に、ぜひやってもらいたいと思った。


その一方で、大学教授を招いて、日本語教授法を勉強しよう、という勉強会もあったのだが、大学で日本語を外国人に教えるのと、地域のボランティア活動で、在住の外国人に日本語を教えるのはだいぶ違う。来ている人の目的も違うし、必要とされている言葉も違う。最近は、アクティブ・ラーニングというのが流行っていて、学習者が積極的に授業で発言したり、参加型の授業が好まれるらしいが、本当に、日本語に触れたこともない人が、いきなり教室に来たりすることが、私のボランティア教室ではあったので、そういうところは、まるで想定してないで、「レベルの高い授業を私は提供します」みたいな、大学教授がうっとおしかった。


大学院で教育を受けた私は、仕事を探しに日本にやってきたベトナム人や、夫の仕事の都合で急に日本にやってくることになったインド人の奥様などに、接すると、自分が大学院で学んでることがまるで役に立たないように思えた。そういう経験ではなく、スーパーで買い物をするには、とか、電車のスイカの割引率とかを説明できることの方が、重要だと思った。地域のボランティア活動はそこに意味があると私は思った。


なんか、大学院で勉強していた自分と、こういうボランティア活動している自分は分裂しているように思う。自分の中でアンビバレントな感情が噴き出る。非常に生きにくいことをしているな、私、もっと、ある一定のコミュニティの人が常識と思っている世界だけで生きていた方が、よほど安易に生きられるんじゃないか、と思う。

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