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知らないところ

 今から十五年ほど前、はじめて宮古島に行ったとき、不思議な場所に行った。  わたしは宮古島のことはまったくわからず、すでに何度も訪れているという人に連れられ、車で伊良部島というところへ移動した。わたしのほかに、連れてきてくれた男性、もう一人女性がいて、みんな同じ年だ。早めの夏休みで、浮かれて海で泳ぎまわったあとは、ぐったり疲れて車のシートにしずみこむ。会話が止まって静かになると、車のプレイヤーからわたしの持ってきた、レムリアの「HUNK OF HEAVEN」が聞こえ、窓から見

    • 誰もいない部屋

       職場でZoomを使用したときのこと。込み入った相談で個人情報も扱うので、二階の空いている部屋を使うことにした。あまり使わない部屋なので、机とイスのほかに、書類の入った段ボールや、故障した空気清浄機、古い冷蔵庫がある。部屋というより物置に近い状態だ。画面に映らないよう、片づけて机の上にパソコンを置いた。Zoomに映る、わたしの背景だけがきちんと見えればいい。パソコンに向かって座ると、マスクをした自分の顔と、白い壁、窓に下がった灰色のブラインドが見えた。机の一部と、隣の部屋へ至

      • わたしの「救い」

         誰にも言えない、誰にも言わないけど、ほんとうは毎日が限界で、決して戻って来られない「暗いところ」へ引きずり込まれそうなところを、なんとか踏みとどまっている。「暗いところ」の誘惑は強く、見えない手で手首や、腕や、足首をぎゅっとつかまれて引っぱられるような感覚もある。電車とホームのすきま、マンションの九階の柵、車の往来の激しい道路や、早朝の歩道橋、もしくは特急電車が行き交う踏切の、遮断機の向こう側。わたしの生きる町や駅、職場、商店には人がたくさんいるけれど、世界から切り離されて

        • ここにはない風景

           今から二十年以上前、わたしがまだ学生だったときのこと。四条河原町阪急百貨店の四階、雑貨を扱う小さなコーナーに、セピア色のポストカードがあるのをみつけた。見知らぬ外国の風景の写真だった。  河の近く、ひょっとしたら海の近くかもしれない。馬のいないメリーゴーラウンドだろうか、覆いがはがれ、骨組みが見えているテントがある。テントの近くに、コートを着たうつむいた人物が見える。体をすくめるようにして、どこかへ駆けだす一歩を踏み出したような姿勢だ。人物の奥には白い木馬があって、サーカ

        知らないところ

          キューちゃん

           キューちゃんは、わたしのものでも、妹のものでもない「おともだち」だった。  布でできたおともだち、「ぬいぐるみ」は家にたくさんあった。わたしはキューちゃんより、ほかのおともだち、つまりムクちゃんやうさちゃんの方が大切で、自分に近しいおともだちだと思っていたので、妹がキューちゃんを抱っこしたり、耳をつかんでふりまわしたりしていても、特に何も感じなかった。キューちゃんは今でいうところの「モブ」。遊びの中で発生する物語の中で、大きな役は与えられず、その他大勢の中の傍観者だった。ず

          キューちゃん

          なつかしい景色

           二〇一七年に担当していたY氏は、二〇一九年に八十九歳になった。町からすこし離れた場所の、急な坂を上がりきったところに自宅があり、インターフォンを鳴らすと「入って」と元気な声が聞こえる。加齢による筋力の低下に加えて、もともと持っていた疾患(悪性の腫瘍)のせいで、一人暮らしが難しくなりつつある。歩行器を使ってゆっくりトイレまで移動したり、台所に立って調理したり、洗濯物を干したりしながら維持する「日常」がゆっくりとほころび、少しずつ崩れていく。  介護サービスは利用しているし、ヘ

          なつかしい景色

          逃亡者(小説)

           あなたを見つけるために、何かが足りない。たぶん、あとひとつだけ。たった一つだけが足りない。でも、何が足りないかはわからない。  毎日そのことを考えているせいか、夢を見た。ぺたん、ぺたんという音が聞こえて、夢の中で目を覚ます。あたりは濃い霧につつまれ、すべての輪郭が淡く曖昧になっている。目の前に自分の指をかざしてみた。指の向こうに生い茂った草が見える。背中にもやわらかな草の感触がある。ゆっくり体を起こしてみると、あたりは薄暗く、早朝か夕暮れかわからない。生い茂った草の向こう

          逃亡者(小説)

          言葉のかたち

           去年担当していた男性、T氏は、七十代から耳が聞こえづらくなり、八十七歳の今はほとんど耳が聞こえない。補聴器をつけてもかなり大きな声・音しか認識できないので、話をするときには筆談が多かった。わたしはいらなくなった紙をクリップボードにはさみ、ボールペンを持参してT氏の家に行った。わたしが挨拶・聞きたいこと・伝えたいことを紙に書くと、T氏は紙に書かれた言葉じっと眺めたあと「今日は体調がいいですよ」「血圧も安定しています」と言ったり、「昨日のお弁当にはたけのこが入っていました」と言

          言葉のかたち

          どこにもない時

          以前勤めていた仕事場では、自動車に乗って移動することが多かった。範囲は職場のある市内がほとんどだったけれど、他市に行くこともときどきある。ある時、自宅のすぐ近くを通ることがあった。わたしは軽自動車を家の前に止めて、家に入ってみることにした。  平日の午後、鍵を開けて家に入ると、今朝ばたばたと出勤していった玄関先にスリッパがあり、廊下や部屋は薄暗く、空気はひんやりとしている。なじんだ匂いはするけれど、自分の家ではなくて、他人の家のように思えた。誰もいなくて、静かだからかもしれな

          どこにもない時

          海にとけた指 (小説)

           袋からはみ出た右手には、定められた数よりたくさんの指がありました。親指が三本あって、そのうちの二本はピースサインをするようぴんと伸び、もう一本は内側に曲がった形でした。この形は完成品、つまり「正しい形」ではないので処分されることになります。解体されたあと、木の箱に入れられて海に沈みます。作業員の言葉を借りると「廃棄」です。  作業している人に近寄って見ていると、 「どうしたの? 気になるの?」 と声をかけられました。わたしはうなずきました。 「見ていてもいいですか?」 「い

          海にとけた指 (小説)

          鏡のなか

           いまから十数年前のこと。病院に併設している施設で働いていたとき「友人がいるから」と、まるい手鏡を持ち歩いている男性がいた。時間があればいつも手鏡を開いてのぞきこみ、話をしている。わたしから顔をそむけ、手のひらの中に手鏡を包むようにして、ひそひそと何かを語りかけていた。会話をしたかったけれど、いつも鏡の中を見ているので、わたしの方は見ない。 「話をしませんか?」 と声をかけても 「今、友人と話をしているから」 と、こちらを見ずに返答する。 病院を退職して、しばらく経つけれど、

          鏡のなか

          秘密の池

           ずいぶん幼い頃、祖母の家に泊まったときのこと。早い時間に目が覚めて、ずっしりした布団の中でじっとしていると、どこからか水の匂いがした。外に池があるのかもしれない。はっきりした匂いで、低くうなるような声で鳴いている蛙の声も聞こえた。早く起きて、外に出て確かめてみないと! どんな池があって、どんな生き物がいるのか。水の様子と匂いを知りたい……考えながら布団の中でまどろみ、はっきり目が覚めたときには忘れてしまっていた。祖母の家から出て、帰りの電車に乗って、自宅へ帰ったときにも忘れ

          秘密の池

          緑色の世界

           階段の形の段々が自動的にあらわれ、その段々に乗っていると上に運ばれ、到着して段々が平らになったところで上の階に乗り移る、というしくみの乗り物、エスカレーターというものに初めて乗ったのはずいぶん幼い頃で、幼い頃はおそらく「乗りこみ」が怖かったり「乗り移り」の時にうまくいくかどうか不安だったりしたのだろうと思うけれど、大人になってずいぶん経つのでその時のことは記憶にない。ただエスカレーターの「下り」の段に足を乗せるとき「ちょっと怖いな」と思うことはある。その頃のなごりなのかもし

          緑色の世界

          ハナちゃん

           今日、出勤前に駅まで歩いていると、少し前を歩いている男子高校生の青いかばんに、うすいピンク色のうさぎのマスコットがついているのが見えた。うさぎはふわっとした布地のマスコットで頭が大きく、胴体は小さくて、手足は薄紫色の花柄の布地でできている。思わず「ハナちゃん」と口に出しそうになったけど、びっくりした気持ちをのみ込んで、わたしは黙ったまま駅へ向かった。高校生はすたすた歩き、ハナちゃんは左右に飛び跳ねるように揺れながら、わたしから遠ざかっていった。  ハナちゃんはわたしの部屋

          ハナちゃん

          ちいさな炎 (小説)

           ぼくが小さい頃には、いろんなことがありました。「はじめて」がたくさんあって、一つずつその「はじめて」を受けとめ、自分の中に入れることが、ほんとうに大変でした。    いろんな「はじめて」に出会うたびに、自分の中にある「何か」が反応して、びりびりしびれたり、暖かくなったりします。冷たくなることも、ぎゅっと締めつけられることもありました。ときどきあらわれる不思議な感覚を「ふしぎだな」とゆっくり考える時間もないまま、いろんな出来事はつぎつぎと起こり、そのたびにぼくの中の「何か」の

          ちいさな炎 (小説)

          十一月

           奈良は秋で、薄曇りの空の下でもみじの葉が赤い。やわらかな午後の光を透かして、なだらかで淡い輪郭の山も遠くに見えた。駅から離れた住宅地の中をゆっくり歩いていると、自宅の近くで見る門や屋根の形が目に入る。この細い道を右に、そしてこの路地を入り、坂を下りれば、自分の家に帰れるのかもしれない。電車で一時間以上かけてここに来たけれど、ひょっとするとずいぶん近くの場所で、わたしが気づかなかっただけかもしれない。そんな想像にふけりつつ一人で歩く。ときおり風が吹き、枯れた枝が揺れてざわざわ

          十一月